不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

【 聖者と盗賊 】 3

3. 十字架

数日後、とうとう盗賊は捕まった。

夜、またザカルとアンナの家に盗んだ金を届けようと一人で歩いていたところ、先日金を奪った男と出くわしてしまったのだ。

すぐさまユダヤ兵が駆けつけ、盗賊を取り押さえた。

盗賊は反抗しなかった。

今までも自分の行いが律法に背くことであるという自覚はあったし、いずれは捕まるものと覚悟していたからだった。

ともあれ盗賊は、金を届けようとした家の者たちが共犯として連行されなかったことで安心した。

牢屋のあるヘロデ王の城に続く石畳を歩きながら、盗賊は短かった自分の人生について考えた。

不思議と後悔や恐怖、悲しみは浮かばなかった。

王城に連れて行かれる途中、盗賊は自分と同じように、縄で縛られている若いラビを見つけた。

ラビは悄然と歩いていたが、その周りを取り囲む兵士の数は普通ではない物々しさだった。

盗賊は何かの力に押されたかのように、自然と声を張り上げた。

「おい、あの方を放て!あの方に何の罪があるというのか!」

ユダヤ兵はあざけるように言った。

「神の子。ユダヤの王を偽った愚か者だ。地獄に堕ちるがいい。」

盗賊は松明に照らし出された若いラビの姿に叫んだ。

「あなたは何も悪くない!この世が狂っているのが分からないのか!」

ユダヤ兵が槍の石突きで盗賊の腹を強く突いた。

「うぐっ」

若いラビは盗賊に気付き、心配そうに見つめた。

盗賊は彼の視線を受けると、堰を切ってハラハラと涙がこぼれ落ちた。

今まで誰の前でも流したことがなかった涙が、どうしても止まらなかった。

「ああ、主よ・・・」

若いラビはすれ違いざま、そっと言った。

「備えておきなさい。耐え忍ぶことによって、あなたは自らの魂を勝ち取るであろう。」

初めての経験だったが、盗賊は悔しさのあまり涙が止まらなかった。

盗賊は大勢の裁判官や律法学者の前に引き出された。

盗賊はエルサレムではとても有名な男だった。

手下も多くいたが、全ての意味において、世で忌み嫌われるような野党の手下とは全く違っていた。

必ず市民から憎まれるような者から財をかすめ取り、そして必ず、そのほとんどを貧しい者たちに施した。

そして時々、少しばかりの怪我をさせることがあっても決して人を殺めることもしなかった。

だから市民だけでなく、貴族や軍人、役人や学者にも彼と彼の手下を支持する人はいた。

しかし、盗賊は今まで行ってきた全ての盗みを包み隠さずに話した。

いくら人を殺さなかったとはいえ、驚くほど多くの盗みをしていた。

本来、ユダヤ社会では窃盗は石打ち刑と定められていた。

しかし裁判官と律法学者はこの盗賊の社会への影響の大きさを鑑み、磔刑を申し渡した。

翌朝、盗賊は朝早くから城の中庭に引き出され、組み上げられた大きな木の十字架の前に連れてこられた。

それの数が3つあることを認めた盗賊は戦慄した。

十字架は宗教犯ではなく、政治犯の証だった。

つまり、あの若いラビはあくまで政治的な反逆罪か何かで裁かれるということだった。

宗教家にとって、これほど屈辱的なことがあるだろうか。

頭が混乱し呆然としている盗賊に、ユダヤ兵の一人が言った。

「お前がこの世で使う最後の道具だ。しっかり運べよ。」

背中を強く蹴られ、盗賊は顔を真新しい十字架に打ち付けた。

一瞬、レバノン杉のほのかな香りがしたが、それはすぐに唇が裂けた後に流れ出た血の味に取って代わった。

少し離れた所に、あの若いラビがいた。

あのやせ細った体で、巨大な十字架を運ぶというのか。無理だ。

盗賊は自分の痛みを忘れて立ち上がり、文句を言おうと振り返ると、今度は革の鞭が顔面を強く打った。

「さっさと運べ。地獄からの贈り物だ。」

盗賊は流れ落ちる血を拭いもせず、鞭をふるった兵士をにらみつけた。

兵士はもう2.3発鞭をふるったが、盗賊が恐れもせずににらみつけると、すごすごと引き下がっていった。

盗賊は自らの十字架を持ち上げ、苦もなく肩にかけた。

城の外では12人のローマ兵と一人の百人隊長がいた。

通常、死刑を伴う刑にはユダヤでは処置できずローマ総督の認可と罪人1人あたり、ローマ兵4名の護送が必要だった。

粗野なユダヤ兵とは異なり、ローマ兵は律儀にも受刑者に敬礼をした。

そして彼らを統べる、百人隊長が二人の前に出てきた。百人隊長は一般のローマ兵と違ってきらびやかな鎧を身につけている。

しかしそれを着ていた隊長はそれを感じさせないほどに品の良い、若い男だった。

「ラビよ、私を覚えておいでですか。いつかカペルナウムで私の大切な召使いを救っていただいた者です。このようなことになってしまい、本当に残念です。今日は私が最後までお供します。どうか、ご不快なことがございましたら、私にお命じください。」

百人隊長は小さな声でラビにそう言った。

ラビは悲しげな、そして優しい笑顔を向けた。

「あなたの信仰によって、あなたの一族に多くの幸いがあるように。」

百人隊長は悲しげに小さなため息をひとつつくと、振り返って出発の号令を出した。

途中、ラビは何度も倒れ、その度によろよろと立ち上がり、自分の十字架を担ぎ始めた。

周囲の民衆は皆、彼につばを吐きかけたり、揶揄したりした。時折ローマ兵がそれを阻止した。

盗賊はその姿を見て思った。

民衆は奇蹟を求めたのではない。

結局のところ、病を治す力だけが欲しかったのだ。

神の国を信じたのではない。

ユダヤの国を救う、愛国者のリーダーを求めていただけだったのだ。

遠い未来の理想ではなく、今この場の現実の救いだけを民衆は求めていたのだった。

その誤解を悟ったとき、盗賊は暗い絶望のあまり、悲しみで胸が張り裂けそうになった。

盗賊は、民衆の中に見覚えのある者たちを見いだした。

ラビと共にいた、数人の弟子たちだった。

弟子たちは、目立たぬよう建物の陰から、おびえるように通りの様子をうかがっていた。

盗賊は体中の血が逆流する思いでその者たちをにらみつけた。

「貴様ら!それでも人間か!」

一人の弟子は周囲の視線を浴びる中、慌てて首を振った。

「いったい何のことだ。私はあなた達のことは知らない。」

盗賊は怒鳴った。

「貴様は自分のラビを見捨てるのか!」

弟子は哀れなほど大仰に手を振り、否定した。

「あなたは何に事を言っているのか。」

盗賊は十字架を強く握りしめ、高々と持ち上げた。

「ウォォォ!この中には、この十字架より重き罪を隠す者がいるぞ。神は何故、彼らを罰せぬのだ。」

弟子たちはますますおびえ、強く否定した。

「いい加減なことを言うのは止めてくれ。私たちは迷惑なんだ!」

彼はむなしさと悔しさのあまり、絶叫した。更に叫ぼうとすると、隣から途絶えがちの声が聞こえた。

「もう・・・十分だ。・・・私は多くの者から・・・お前が愛されていることは・・・知っている。・・・だから・・・これからは神にも・・・愛される行ないを・・・心がけなさい。」

ラビは恥に塗れて怯えきっている弟子たちをしばらく見つめると、にっこりとほほえんだ。

弟子たちはラビのやせた顔から発せられた穏やかな笑みに釘付けとなり、やがて全身を震わせて激しく泣いた。

そして立ち去ることはなかった。

逆に貧しい身なりの人々は、ラビと盗賊の姿を見るや、祈る者や涙する者が多くいた。

盗賊は心が張り裂けそうな激情を押さえ、持ち上げていた十字架を肩に下ろすと、再び黙々と運び始めた。

「神は・・・いったいどこにおられるというのだ・・・。俺にはもう、神が見えない。」

絞り出すようなつぶやきに、ラビは悲しげな視線を送っただけだった。

弟子たちも涙を流しながら、口々に何か小さく叫んだが、十字架を背負った二人にはもう聞こえなかった。

ゴルゴダにある半球状の丘には多くの人々がすでに集まっていた。

昼近くの太陽は厳しい熱を荒れ果てた大地に降り注ぎ、青い大空を支配していた。

怒りのせいだろうか、盗賊にはこの重い十字架もさしたることはなかったが、ラビには重かった。

丘の手前では数歩歩いては立ち止まり、三度に一度は倒れた。

そしてそのたびにユダヤ兵から鞭打たれたが、ローマ兵がそれを止めに入った。

ラビが丘の頂上までたどり着いたのを待って、3人は十字架の上に仰向けにされた。

ラビと盗賊は反抗の意志すら見せず、しずしずと言われた通りにしたが、若い罪人だけは暴れるので兵士らが十字架に縛り付けた。

その悲痛な叫びは生け贄にされた羊が殺される間際に放つ声にも似ていた。

百人隊長は心配そうにラビの傍らにかがみ込んだ。

「今からあなたの両手と両足に釘を打たねばなりません。痛みに耐えきれないようでしたら痛み止めの葡萄酒を差し上げます。どうか安らかに・・・」

ラビは小さく、うなずいた。十字架を運んだ重労働の為か、意識はもうろうとしているようでもあった。

「重ねて言う。・・・あなたの信仰の故に、あなたの時の終わりに、神の園が待っていることを・・・心に留めおきなさい。」

百人隊長は目に涙をため、震える声で言った。

「おお、なんとむごい時代なのか。主よ、私はあなたを信じます。」

彼は血だらけになった、枯れ枝のようなラビの手を震えながら強く、いとおしく握ると、立ち上がった。

打たれた釘に痛みを感じたのは、最初の1本だけで、後は体のどこかが叩かれているような感覚しかなかった。

手のひらには太いさびた釘が刺さっているし、十字架の柱の両側面には自分の足が釘で固定されているものの、盗賊は想像した以上の痛みは感じなかったことに驚かされた。

百人隊長が盗賊のそばにやってきた。

「千年の後、物語には聖者と義賊が、悪の帝国ローマの手先に殺害されたと残るだろうな。」

盗賊に語りかけたのか、自嘲したのか分からない口調だったが、盗賊はていねいに答えた。

「いいや、ラビの言う通り、あなたも神の園にふさわしい者だと信じる。」

盗賊はそのように言った自分に驚いた。

「ありがとう・・・」

百人隊長は救われたように安堵した。

盗賊はほほえんだ。もう誰にもおびえなくてすむことが、彼にはうれしかった。

そして気遣わしげに隣のラビを見た。

ラビはやや苦しみの為に青ざめ、汗を流していた。

(つづく)

SD110910 碧洲齋