利休道歌 八
右の手を扱ふ時はわが心 左の方にあるとしるべし
利休百首はしばらくご無沙汰でした。
前回の歌から今回の歌まで70ぐらい飛びます。
途中は主に技術的な記述が多いので割愛しました。
もちろん一句一句には技術以上のことが込められているのは承知していますが、門外漢としてはとりあえず分かるところに焦点を合わせたいところです。
この句はなかなかどうして、体術の動きの際の注意点に合致するように思います。
私も師から言われてきたこのことを自分が指南する際は頻繁に同じ事を言います。
攻撃する際、自身の肉体に関して言うと、普通、攻撃に使う部位に心することが多いと思います。拳や足でしょうか。敵に触れる部位に細心の注意を払うことが多いのではないでしょうか。
ま、これはこれでいいのですが、第三者から見るとそういう心持ちによって攻撃を仕掛けている人の姿勢は程度に差があってもよくないことがほとんどです。私の場合、熟練者だと分かりにくいこともありますが、大抵ビデオのチラ見程度でも相手の心がどこにあるかが大体ですが分かります。逆に攻撃に使っていない部位が怖い、相手の重心が見えない、などという場合はかなりの熟練者だと思います。少なくとも私の経験ではそうでした。
攻撃しているときは攻撃するところに心するという行為は確かに心も体もバランスを崩します。視野が狭くなると言っていいかもしれません。従って他を攻撃している達人の背後を襲おうとしてなお怖いと感じるのはこの句の境地があるが為かもしれません。
またこの句には左右だけではなく、上半身、下半身という入れ換えでも観てみたいものです。上半身、手を動かしているときは足捌きに、足捌きをしているときには手の動きに心してみたらいかがでしょうか。まだ入れ換えてみるべき対象はありますが、後は各々で考えてみて下さい。
私のところでは技をかけているいかなるプロセスの途上でも、無理なく受身ができる姿勢が一番よいと言っています。他流の方にはちょっと理解しにくいかも知れませんが、当流の場合、受身は技を受けるときではなく、逃げたり技を変化させるときにも使います。体ごと瞬時に逃げるのですから全体的に絶対的なバランスの良さを要求される動きです。下手な人がそれをすると受身にいちいち予備動作が付いたり、予測されてしまう動きになってしまいます。熟練してくると相手が歩いたり走ったりでは追いつかない程度には俊敏に動けるようになります。
これを超えると、心をどこにも留め置かないという境地になると思います。これが一番よい動きであることは言うまでもありません。とりあえずは身持ちを崩さないところに心を置き、次は自在に、そして最後には消す、そんな順序でよいのではないかと思っています。
それにしても茶道でもこの境地を語っているところをみると、やはり姿勢や心の持ち方ありようが非常に重要なのだとよくよく思い知らされます。茶を飲む行為をここまで高めた日本の精神性の高さには、日本人ながら感心しきりです。
SD101108 碧洲齋