不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

たまにはいるものだ

昨日は久し振りに大人数の外国人門下生が、私が通う道場にやってきた。いつもは少人数だけにかなり賑やかだった。

その中で1人、イタい門下生がいたのだが、それについていささか思うことを書いてみようと思った次第。

彼は中東の某金持ちの巣窟・・・もとい、カネが潤っている大都市からイギリスに移民したようだが、若干29歳とか。

休憩中に一手指南を頼まれたので相手をしたのだが、久し振りに見たトンだ勘違い坊やだった。

気概たるやラオウ並で技量は有段者以下。ま、力はありそうだったがそもそも武道以前に格闘の何たるかも分かっていなさそうな様子。終いには「今のはオレからお前に気を送った!」などと真顔で言う始末。凄んで見せてはいるがまずその体形から直そうね(笑) ボクちゃん、「北斗の拳」の見過ぎだろうと苦笑してしまった。一応黒帯のようだが、一体コイツに教えたのは誰だと思わず苦笑したレベル。

組むや否や、早速彼から指導されまくり(笑) たぶん、技の稽古の意義を全く理解していないのだろう。ガチガチに踏ん張っているから技はかかりもしないし掛けもできない。相手はガンガン押してくるが、力任せなので私が水のようにしているとイライラしたりガン付けててきたり(苦笑)。正直、そういう相手を制圧するのは容易なのだが、技の稽古なので。

先生が心配してやって来て、説明しても驚くことに首を左右に振って平気で否定する始末。仕方ないので先生が武道哲学から丁寧に説明しても頑として領せず、武技に至っては「力の何が悪い、アルコール依存症麻薬中毒患者だったらどうするんだ。力で制圧して何が悪いのか?全然理解できない。」とまで言う始末。

こんなのがわざわざお金を払って日本まで来て、春日部くんだりまで足を運ぶのだから驚く。よほどカネとヒマがあるのか(そうかも知れない)、先生や親のしつけに言及せねばならないレベルなのかどうか。

基本的に武道における技の稽古は「相手を制圧するための技術」ではなく、自身の身体を極限にまで合理的に効率的に稼働させるためであり、その方法論の一つとして、相手を倒すという想定を組み入れているに過ぎない。別に器械体操でも水泳でも身体の機能性を高めるという意味では大きな違いはないと考える。哲学的な部分でさえ、例えばオリンピックアスリートの持っているものの考え方は武芸に通じること多々ある。武道は日本的なものの考え方から深く省察を持ちたいという場合にはよいのだと思う。指向性の問題。事実武芸においてはけんかっ早い人の方が意外に強くなかったりすることもしばしば。そういう人は大抵技量に劣り、技を遣う機が全くと言っていいほどズレまくっていることが多い。

自身の身体を鍛錬する。相手を制圧して撃滅するというのは武芸の技では基本的に副次効果ぐらいに思わねばならない。技がそのまま使える状況などは滅多にない。学校で学んだことと同じかも知れない。学校で学んだことを有機的に運用して初めて社会に出て役立つあれである。

武道の道場をストリートファイティングのジムか何かと勘違いしていたのかも知れない。正直武道に「即効性」を求めてはならないと考える。実際即効性があったとしても、だ。即効性で言うならスポーツの方があるだろう。

先生に対しても稽古においては何かを要求してはならない。先生はスポーツジムのインストラクターではない。インストラクターと客の関係ではない。基本的には先生が何かを教えたその中から自ら求めているものを探し出さねばならない。理由は簡単である。先生のレベルから俯瞰した見え方と、門下のレベルから俯瞰した見え方は違うからだ。失礼だとか言う以前の問題。

ま、私も29歳の時はあまりエラそうなことが言えるレベルでは無かったのだが、昨日の彼ほど酷くはなかったと思いたい(笑)

平成二十八年文月十七日

不動庵 碧洲齋