不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

二葉と山岡鉄舟

昨日の午後から、他に4人の禅友たちと埼玉県は北部に位置する小川町まで行ってきました。 禅友と言っても私以外は全員が60才以上のベテラン、大先輩たちです。中には私が生まれる前から禅、もしくは武道をやっていた方も。昨今、禅や武道で集うことがあると大抵は中堅か古参扱いなのですが、昨夜は全くの駆け出し、青二才、小僧扱いです。初心に還ったようで妙に嬉しいというのか懐かしいというのか。 同席の二人は同じ早朝坐禅会の古参先輩ですが、二人は初見の方でした。二人とも以前は同じ坐禅会に参加されていたとのこと。今は一人の方は白山道場に参加されているとか。であれば私は何度か顔を合わせていたのでしょうか。 先に私と早朝坐禅会組が到着してかなり早かったので近所の喫茶店にて時間を潰し、16時半に二葉にて合流しました。前に博物館だったか全生庵だったかで山岡鉄舟の揮毫を見たことはありましたが、これだけの数の揮毫が揃っているのを見たのは初めてです。旅館本館の表看板も鉄舟が揮毫したものを写して彫ったものだとか。 本館
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本館を女将に案内していただきました。残念ながら写真撮影する閑が無かったのですが、驚きの連続でした。錆壁という技法で作った壁があります。鉄粉を混ぜた漆喰で壁を作り、自然錆びてくると茶色の味のある模様が浮き出てくるのですが、普通は小さな茶室にしか使われていないそうですが、ここでは館内のあちこちで使われていました。建材も自然木に限りなく近いものだったり、巨大な楓の幹をそのまま大黒柱に使ったりと、野趣溢れかつ古風な風格を持つ旅館でした。庭もまた素晴らしく美しいものでした。そういえば甲冑も1領ほどありました。 錆壁
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今回二葉に行ったのは、「忠七飯」なるものを食べるため。また山岡鉄舟の遺筆を観るためでした。山岡鉄舟は若い頃、今私が通っている寺にも参禅してきたという事で親しみを覚えますが、もちろん一人の武芸者としても尊敬して止みません。 晩年の山岡鉄舟
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二葉の説明によると、「忠七飯」とは、山岡鉄舟から八代目当主・八木忠七に「料理に禅味を盛ってみよ」との示唆があり、思案に明け暮れ苦心創案して作られました。これは温かいご飯に新鮮な海苔を加え、独特のつゆをかけてお茶漬けのように召し上がる料理で、その味を引き立たせるものとして、わさび、柚子、さらし葱などの薬味を添えるものです。食事は新館にて頂きました。 コースのメイン、忠七めし
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私は滅多にお酒は飲みませんが、今回はビール2杯に小さな御猪口でですが、日本酒の燗を4.5杯ほど頂きました。これは私にとってはかなり多い方です。ビールと酒が本気でおいしかったのでヤバかった。 お酒を飲まないクチなので、先輩方に次いで回るタイミングがなかなか掴めずに苦労しました(笑)。こればかりは日頃から呑んでいる人の方が実に自然にできますね。料理はもう何も言うことなし。文句なしに色彩に優れ、おいしいものでした。 初めてお目に掛かった二人の大先輩の話を聞いていましたが、やはりずっと坐っている人は違うなぁとつくづく感じました。私などは全く以て子供同然です。それと目。ふとしたはずみに目が合ったのですが、涼しげというのか、透明感があるというのか、うまく言えませんがそんな感じでした。 もう一人の方などは武芸を始めたのは12歳で禅は16歳ですから驚きです。 お酒が入ったからか、坐禅会の先輩方も日頃から思っている胸中を十分に語ってくれました。まあ、社会的にも人間的にも大成しての武芸や禅なのだろうと思った次第。私などはまだまだ青二才を地でいっているような感じです。 仲居さんの1人が島倉千代子風?の方で気さくな感じでした。多分韓国の人のようでしたが、僅かなイントネーション以外は私たちの小難しい話しも完璧に理解していたので日本は長いのだと思います。このように日本の心を知る外国人が増えていくといいですね。 山岡鉄舟に衝撃を受けたのはいつのことだったか。彼が打立てた流儀は一刀正伝無刀流、これは今に続いているものですが、旗揚げしたのはなんと明治に入り薩南戦争も終わって随分経った明治18年。江戸時代は遠くになりにけり、ざん切り頭を叩いてみれば文明開化の音がしている、正にそのただ中に剣術の流派を打立てたという事実にショックを受けたものでした。ある意味、彼の持つ武芸観念こそ、今現代に生きている多くの武芸者に通じるものではないかと思います。 また折をみて、今度は泊まりがけで参りたいと思いました。 割烹旅館二葉 http://ogawa-futaba.jp/ 平成二十八年皐月十二日 不動庵 碧洲齋