不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

彩雲

24日から25日は家族と共に越後湯沢のスキー場に行ってきました。

場所とホテルを鑑みていささか高かったのですが、さすがにスキーでは有名どころ、雪質も設備も大変素晴らしかった。昔、高校のスキー教室で越後湯沢に行きましたが、それ以来でした。

息子は2年振り2回目のスキーでしたが、最初に数回転んだだけで恐るべき学習能力の高さ。以後ほとんどコケることもなく。24日の終わり頃は結構な速度を出している私に僅かに遅れて付いてこれるほど。翌日などは中級コースにもチャレンジ、これまた転倒せずに滑りきりました。自分で言うのも何ですが大したものです。

二人でリフトに乗っていたとき、偶然「彩雲」が見えました。

私が見た「彩雲」とは、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象を指しますが、別名瑞雲、慶雲、景雲、紫雲とかいうおめでたそうな別名もあるくらい、特に仏教では吉兆なのだそうです。

私も息子もしばし虹色に染まった彩雲を見上げていました。神々しい時間でした。

帰路、上野駅から竹ノ塚駅までのこと、私は一組の親子に目が止まりました。

お父さんは多分70-80歳ぐらいの老人、息子さんは私と同じぐらい。ただ息子さんは脳性麻痺か小児麻痺の影響で四肢が少し不自由そうで、精神的にも障害が認められていたという事。

息子さんは時折、意味不明なことや同じ事を何度も老いたお父さんに尋ねていましたが、お父さんはいちいち丁寧かつ穏やかに答えていました。息子さんが全幅の信頼をしていることが伺えました。

私にはその老父の横顔が印象的でした。

電車を降りてから、今度は私の息子が言いました。

「悲しいことだよね。」

今回に限った話しではないのですが、良く二人で出掛けると息子は私が何に関心を示しているのか、何を見ているのかよく察知します。

私はその理由を聞きました。曰く、あのような高齢になってまで息子の面倒をみなければならないこと。親の方が先に死んでしまうこと。親が死んだら息子さんはどうやって生きていくのか不安なこと、多分親にとってはこのくらい辛いことはないと言っていました。私は内心苦笑しました。確かに良く見ています。

何がどう悲しいのか尋ねました。

「未来が見えないことはとても悲しいことだ。」と言っていました。

親の子にかける愛情というものは打算がないものだから、苦しいとかいやだとか思っていないのかも知れない、と言いました。偶然にも前夜、息子がホテルの部屋で聖書を見つけ、どの言葉が一番気に入っているか私に尋ねてきました。私はルカの福音書に書かれている言葉を言いました。「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。」この言葉をもう一度、息子に言うと分かったのかどうか、しばらく黙っていました。

息子はこの意義を理解してくれたのではないかと思っています。

平成二十八年睦月二十六日

不動庵 碧洲齋