不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

暴力について

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昨今、力ある者が力ない者に容赦ない暴力を振るって傷害を起こしたり殺害に到るニュースをよく見ます。

大人が子供を、若者が老人を、男が女を(ま、女が強いこともありますが)、複数が一人を、ざっとこんな感じで。全く愚かすぎて話になりません。

ストレスの耐性がなくなり、そのはけ口に自分より弱い人間を対象にした暴力行使をする。食べ物や生活環境のせいでしょうか。そんな気がします。

多分昔は良くあったんだろうな~と思う方、はいその通りです。ただ違うのは「加減を良く知っていた」こと。拳で殴るにしても蹴るにしても加減を知り、引き際を知り、それをすべき道理を知っていました。

今の子供は(或いは若い世代は)そのような知恵に悉く疎い。格闘技ゲームのやりすぎなのか、異常な暴力を振るったり、程度を察知できなかったり。要するに社会に生きる個体としては欠陥状態である人があまりに多い。

格闘技や武道を嗜んでいる人間は人を傷つける程度を良く心得ています。どのくらいまで力を入れたらどのくらい怪我をするか、大体分かります。だから他人に暴力を振るうことにはためらいを感じることしばしば。私の場合で言えば武道を始める前は向ってくる奴らをギタギタにと血が沸騰するほどに意気込んでいましたが、実際に入門するとなんと沸点の低いことかと恥じ入るばかり。そして格闘技術の巧妙さ、恐ろしさを知ったものです。

私が子供の頃は別段、武道や格闘技をやっていなくともほとんどの子供は殴り合いのケンカの加減や引き際をよくわきまえていたものですが、今はそうでもないようです。

最近私は息子にせがまれて体力作りのメニューを造り付き合わされてます。本人はかなり社会的で調和を取るのがうまく、別段いじめられているわけでもないのですが、突発的で静止が効かなさそうな暴力が起きたときが怖いという事です。(それと中学校になったときのいじめもでしょうか)確かに体力があればある程度は防げますが、焼け石に水程度です。基本は調和です。

かくいう私も小学校後半と中学校ぐらいまではほぼいじめられていたクチですが、集団の暴力は本当に怖い。今でこそ周囲に囲まれても驚きもしませんが、当時は想像するだけで不登校になりそうでした(なぜ不登校にならなかったのかは不明ですが)。今でも同じだと思いますが、基本、友人や学校はほぼ助けにならないことを前提に自分の身を守るべきだとは息子に言ってあります。そして身体を鍛えることも一時しのぎに過ぎないことも。

とは言え、私がいじめられた原因の半分以上は他のいじめられた人をかばったり、理不尽な集団サボタージュに参加しなかったからで、今思えば実力や人望もないのによくもまあエラそうなことをしたものだと感心します。ただ人の親になってからは後ろめたいこともないので自信を持っていじめに対することは言えますが、当時私を楽しそうにいじめた連中は今頃自分の子供たちに何と言っているのか(苦笑)。そういう真実のない人間にはなりたくないよう、努力したいものです。

いじめに遭っていたとき、いつも印象的なことがありました。それは「遠巻きにして、何もしなかった人たち」。次は自分におはちが回ってくるんじゃないだろうかという恐怖と疑惑の混ざった目を、いつもキョロキョロさせていたこと。もちろん、そういう弱い善人はあとで謝ってきたり、それとなく助けてくれたり。そういう人に怒っても仕方ありませんが、そういう人間が世の中の大半なんだろうなと、10代前半で既に悟りました。実際そのようですが。

暴力は個人や国家(国家の場合は権力ですが)が極力使わぬよう、努力すべき事柄かと思っています。武道における実力行使は行使されるときはよほど理由があるときですが、暴力はどんなときでも暴力です。因みに辞書で調べると暴力とは「1.乱暴な力・行為。不当に使う腕力。2.合法性や正統性を欠いた物理的な強制力」です。故に暴力は常に悪です。

当流の先代宗家がよく伝える武道歌があります。

「忍べや忍べ、ただ忍べ。抜けば斬るなよただ忍べ」

今はよく理解します。忍び尽し、耐え潰した後の武術の行使は多分、道理に適っていることが多いと思いますが、それを決して誤らないために日々の稽古があるのです。そのギリギリを見極めるための稽古です。もちろん、使わずに済ませる方法を模索できるかどうかと言うのも技量に含まれます。

実際問題として武道は自分に即した道を見つけるための方法論です。そして安易な行使では我が身を滅ぼしてしまいます。人を殺傷する技術と知識を以て修練する道故になかなか難しいものではありますが・・・。

暴力そのものはいつ何時でも行使はよろしくないですが、それが特に相手が弱者である場合は古今東西どの場面においても数少ない絶対悪に近いものがあります。・・・そんな事言っても使わずにはいられない人が多いのでしょうが、獣だって生存に必要な時にしか力を使いません。感情の趣くまま、基本的な生存にほとんど関係のないことに使う力を暴力とすれば、暴力は人間の専売特許でしょうか。我々人間はそのような愚行を努々起こさぬよう、慎みたいところです。

平成二十八年睦月二十七日

不動庵 碧洲齋