不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

親の視点

などと書くと大上段で構えた感じになるのであまり好きではありませんが、要するに子孫をなるべく長い期間生き長らえさせるという生物学的に重要な目的で考えています。

親の主要目的は、幼児の頃は外敵やあらゆる怪我や病気から守るですが、長ずるに従って、1人で生存していく為のノウハウを伝授する、に変化しなければなりません。これはほ乳類であれば絶対の法則です。

原始時代から多分明治時代の初め頃まではまず「火の扱い」そして「刃の扱い」。昨今、クソガキどもが「護身用」と称してなにがしかのナイフを持ち歩いているのを見かけますが、99パーセントは正しい使い方を知らない。つまり持っていたいだけ。護身用というなら野球のバットとかテニスラケットの方がよほど役立つし法に触れません。

また、武器で身を守るのは戦国時代などの混乱期ならいざ知らず、今そういうことをしてもほとんど役に立たない。護身術を学ぶならそういう状況に遭わないようにするための勉強でもした方がよほど効率がよい。また、どうしてもというなら今時は護身用グッズが充実しているので、そういうものを取りそろえた方がコスパ的には優れています。

護身術というのは体を動かす快感に護身ができるというオマケがある、という程度で考えた方がよさそうです。

人は社会的生き物です。ま、他のほ乳類でもそういうのは多くいますが。

という事で人は火や刃物の扱いだけではどうにもなりません。

現代では学力を以て個体のスペックを上げていき、カスタマイズすると言うことが求められます。

江戸時代ぐらいまでは親の仕事を継がせることが9割以上でしたからこれはかなり楽です。

子供は幼少の頃から親の仕事を観ることができ、かつ他の仕事という選択が極端に少なかった。

ちなみに江戸時代では8割は農民だった。農民と言っても地域によって手法が変わるからよそ者が農民になることはかなり難しい。現代では機械化と品種改良により昔ほどには差異は少なくなってきたが、そもそも農業人口が激減しているという事実がある。

現代では子供はより長い学習期間があり、かつ仕事を選ぶ権利があるため、そこを勘案して親は教育しなければなりませんが、私は基本的に「好きな仕事を探させる」能力を高めてやりたいと思っています。といっても息子は既に自分の仕事について、かなりのディティールまで明確にしています。宇宙飛行士でしかもロボット工学を必要とする作業につくメンバーを狙っているようです。ISSへの乗り組みは適わぬものの、その後の月面開発や火星探査などを考えるとそれが一番、よいと考えているようです。

そこまで行くと私がしてやれることはそう多くはありません。最近は光速に関する相対性理論や熱核融合炉に関する知識など、私もよくは知らない事に熱中しています。私ができることは彼の情熱の炎を極限まで燃焼させてやること。ちょっとカッコよく言えば希望の炎、夢の炎です。勉強しろとかそういう低レベルのことではありません。遠くを見ろ、道は遠い、その先は素晴らしいものが待っている。これをどれだけ心に焼き付けさせることができるか、全部親にかかっています。

世の親で間違っているなと思うのが、遠くのものを観る力のある子供に対して、卑近なことしか言わないこと。

「勉強しなさい」

「部屋を片付けなさい」

「準備はしたの?」

「いい高校/大学に行きなさい」

「いい会社に就職しなさい」

「これはしてはいけません」

などなど。子供には判断力を付けさせるのが親の仕事なのに親が判断したことを子供に押しつける。子供もバカではありませんから、自分で判断ができるレベルのことを親が言ってもタイミングが悪いと意味がない。もちろん、リスクが大きい場合は親が判断することもありますが、多少遠回りをしても私はなるべく子供に判断させています。自分の人生です。私が死んだ後も生きていかねばなりませんから。

良いか悪いかを判断してやるのが親ではありません。善悪があることは幼児でも分かります。そんな単純な真理ではなく、親は皆の善悪の基準が全て異なること、絶対がないこと、そういった宇宙の真理というものがあることを示さねばならないと思っています。親がその答えを知らなくてもよいのです。代々、謎であってもよいので、「何か巨大なもの」が確かにあって、ずっと解き続けなければならないということを分からせることが重要かと思います。

・・・そういうコミュニケーションの中に親子の絆があるのではないかと。

命令や注意、禁止ばかりではコミュニケーションは生まれない。

答えを用意してやることが愛情でもなく。

道を探す能力、道を歩かせる能力、道中の艱難を耐え忍んだり解決させる能力を向上させることが肝要ではないかと思っています。

特に意味も無く書き綴りました。本当に深い意味はありません。

平成二十七年弥生三日

不動庵 碧洲齋