不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

息子が十一歳になった

11年前の本日、確か朝の4時を少し回った頃だったかと思いますが、息子が世に生まれました。早いものでもう11年です。立ち会い出産でしたので生まれてきた瞬間も見ました。その時の感想はとにかく眠かった(笑)。息子を洗って抱いてすぐに隣の待機室のソファで1時間程度爆睡した記憶の方が強く残っています。実際に男親として実感が湧いてきたのは世話をして、話しかけて反応が出てきた頃です。ドラマのようには行きませんね。

名前は妻が探してきてくれたもので、個人的にどうしても父から私に受け継がれた漢字一文字を入れたいという意向に沿って探してくれましたが、私の「趣味」にも関連しているのでこの名前はとても気に入っています。良く探してくれたと思い、今に至っても感謝に堪えません。息子が大きくなって自分の子供を持つようになったらその漢字を継いで欲しいと思います。

息子に心掛けていることはそう多くはありませんが、小学生の間はできるだけ「徳育」に力を入れています。学業は二の次で良い、と考えています。学問に関して言えば、孔子ですら「我十余五にして学に志す」と言うぐらいですから、思い立ったときでも十分と考えます。しかし心の教育はそうではありません。鉄は熱いうちに打て、の通り、小さい頃が肝心と考えています。

世界には色々な神がいるが、結局言っていることは皆同じ。森羅万象は全て仏だから尊くないものはこの世に存在しない。自分の出来ること、自分がしたいことに励む。世のため人の為に役立つ。出来るだけ誠実に生きる。そして何より親が率先してそれを実践する。徳育、道徳を教えるのは言葉ではありません。行動だけです。言葉は必要最小限に添える程度で良し。私はそのようにしています。

手前味噌ですみませんが、自分が11歳だったときに比べると息子の智慧の深さには良く感心させられます。私が11歳だったときには神や仏、生や死について考えたこともありませんでした。人とは宇宙とは、戦争とは平和とは、そういう深い命題があることすら知りませんでした。幸いにして私には過分なほどの友人や師匠に恵まれていて、そのような深い命題について考えることが出来ます。そういう問いは息子をより深みのある人間にしていくことだと思っています。

勉強しろ、いい学校に行け、○○部に入れ、これは良くてこれは悪い、私はそういう短絡的かつ智慧のないような指示は決して息子には下しません。そういうことを何の疑念もなく言う親は大いに問題があると考えます。親は子の代わりに決定すべきではなく、子の下した決定をよりよくすることに徹するべきです。

また、子供のしたいように、という言葉を理解していない親が多いように思います。子供は結局、親のしていること言っていることを参考にします。親を参考にさせず、世の中だけを見せて本人の進路を決めさせる、自分の生き方を決定させると言うことは不可能です。子供は何を置いても親の背中を見て育つものです。いつだったか、私に「子供を洗脳している」などと言う御仁がいたのですが、笑止の限り。それを言うなら完全放任主義育児放棄を是としてしまいます。子に対する教育で一番に責を負うのは世の中では親が一番です。親からの影響が最もあって然るべき。それがなかったら親の意味がありません。

随分と偉そうなことばかり書立てていますが、私とて完全ではありませんから、10年後に読み返したら赤面するかも知れません。今のところ歴史を紐解いたり智慧ある師に尋ねる限りではこの辺りではなかろうかと思っています。

丁度去年、息子が未来の自分に書いた手紙

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平成二十六年長月二十五日

不動庵 碧洲齋