不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

とある知人について

ある知人がいます。ちょっと困った人で、頻繁にケチ、愚痴、皮肉、嫌味、非難を呼吸するかのようにひっきりなしに言います。

言われた側はもちろんですが大抵言い返したり、我慢したり、無視したり、そこで更に戦火が広がるというのが定石のようです。

その知人は自ら放った火種が燃え上がることで、自らを体現しているように思います。

負の言葉、マイナスの言葉を吐き出して、その摩擦を以て自らの存在を認識しているような、そんな気がします。

そういう空しいことをして、自分のアイデンティティを打立てているようです。

付き合い上、よく顔を合わさなければならないのですが、前は良くぶつかり合ってましたが、この頃は沈黙を保ちます。

忍耐しても無視してもそれはやはり相手にとってはある意味「意志」で、ゴリゴリぶつかって自らを認識させるために役立たせてしまいます。

そういうことで私はただ無念無想で沈黙するように努力しています。

人を口撃して楽しいのか、喜びを感じるのか、その人の目を見ていると暗い炎が燃えさかっているように感じます。

私が言葉で諭せば、私の言葉は油になってしまいます。なのでやはり沈黙が一番かと思います。

その知人にも導けるような師がいればいいのですが、やはり人は自らの志通りの人物しか現れないもの。知識を与える人は多いようですが、智慧のなんたるかを指南する人には欠いているように思います。

そんな智慧あることを知らない人にはやはり沈黙が一番です。無視したり我慢したりするのではなく、水の如く風の如く流してしまうような沈黙。流れることで己の暗愚な行いに気付けば良し、気付かねばそれは本人に留まるもの。いずれにしても私に関わることではありませんから。

一旦人が固執し尽すとこうなるのかと、その知人を見てある意味恐怖します。

どんなに知識があっても、可能性があっても、何かに固執して偏執狂になると全部が失せてしまうような、そういう感じがします。本人はその狂気を感じているのでしょうか。私が神経質なのか、私はその狂気じみた言動に時折、人の奥深いところで煮えたぎる暗い炎を感じます。

禅を行じている為、私はその知人の前では無とか空になるように努め、それは時折成功しますが、そういう暗愚な人ですら私にとってはある意味よい修行の場所にしか過ぎません。故にそういう意味では感謝はします。まあ、深く関わりたいとは思いませんが。

本人も早く、偏狭や固執から離れたところにある、光り輝く暖かい場所を感じられるようになれば良いと願ってやみません。

平成二十六年長月二十四日

不動庵 碧洲齋