不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

写経のこと

寺で写経をする息子

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写経とは文字通りお経を筆で書き写す作業ですが、一般的に手本になるお経は般若心経が多いようです。私は般若心経よりも短い不動経も書いたことがありますが、やはり長さ的に般若心経の方が良いように感じます。私自身も何度か自宅や寺でやったことがあります。

この写経はその行為そのものによって禅定に入るという、修行の一種とされていますが、実際にやってみるとこれはなかなか効果があります。まず何と言っても日常的に使わない漢字が多く出てくるので、集中力が要ります。また、筆書きなので基本ミスは許されません。

これだけの条件があれば日頃の書き物に比べてどれだけ集中しなければならないか分かると思います。現在ではこの原稿もそうですが、パソコンで書くのでいくら間違っても全く問題ありませんし、漢字もうろ覚えで十分。これでは書いていてもダレてくるのは必定というものです。

先日の親子旅行で息子に何が一番印象深かったかと聞いたところ、写経でした。子供に集中力を付けさせるくせを付けるのはいいことだと思います。

写経はその場の雰囲気も相俟って、間違わずに難しい文字を書くという作業ですが、禅的には日常の言動も同じようにすると言うことです。簡単なことも難しい事も丁寧に慎重に。言葉も然り。思慮すると言うよりもする事そのこと自体に集中する。そこに仏性を見出す契機があるということです。

食べる、飲む、使う、所作すべてに写経と同じような姿勢で臨む。禅僧が修行する僧堂では何千という非常に細かい規則があって、いちいちそれに従わねばなりません。傍から見るとそれは何とも堅苦しくて不便に思うかも知れませんが、思うにそれは写経と同じく決められたとおりにそれをする、禅定に入りやすくするための方便ではないかと思います。いちいち何事も「どのようにするのか」と頭を働かせていてはなかなか禅定には入れません。

家の中にゴミが落ちています。私たちはそれを心底無心で拾うことはなかなか難しい。ゴミの大きさ、ゴミが落ちている場所、ゴミの種別、自分が今持っているタスク、ゴミ拾いの優先度、重要度、自分の疲労度、ほんの一瞬、頭をかすめるだけですが、多分私たちはたかがゴミ拾いでもこれらのことを勘案してしまうことはあるのではないでしょうか。もう少しレベルの高いタスクならもっとたくさんのパラメーターがあるはずです。そしてこれらの思慮こそが禅定に入るには最も邪魔になる思考活動と考えます。

基本的に自分を振り返らない限りは大抵無心に何かをするはずですが、なかなかどうして私たちにはそれが難しい。分ける時には取り分の多さを考えます。給料は多い方がよく、楽な度合いは高い方がいい。関わる人間は美人(美男)がいいし、何か持つなら軽い方がいい。全部「自分」を勘定に入れるとこんな風になります。

自分を勘定に入れない行為は確かに美しいと思います。これは世界的に見ても同じだと思います。それを収斂させた行為の一つの現れ方が写経ではないかと思います。「その行為」しかありません。「する者がするものをしている」全てが一つに投じられているそのもの。

これが日常的にできるようになったら大したものだと思いつつ、努力しています。私はいつも師の所作をつぶさに見ていますが、一挙手一投足、まさにその禅定の状態であることが非常に多いことがよく分かります。スッと無心でそれをする。振り返らない。長年厳しい修行をしてきた人間だけがなし得る習慣ではないかと思いますが、在家でも努力すればそれなりには近づけるとも思います。そういえば白隠禅師も「動中の工夫は静中の工夫に優ること百千万倍」とおっしゃっているので、坐るだけではダメなのです。

日常、私たちは妄想や雑念、偏見や固定観念、先入観や幻想が多く入り交じった状態での行動があります。それはイヤイヤやらされている仕事であったり、楽しい週末を夢見てする仕事だったり様々です。でも現実には「今/ここ」以外の場所や時間はありません。その二つから離れている自分もありません。故にその二つから離れては自分は存在し得ない以上は「自分」という存在は所詮そんな程度のものだと思います。

師もよく言うのですが、「今/ここ」をしている「自分というそれ」を徹することで、私たち禅の修行者が見たいと思っているものが見えてきます。まだまだ先は長いですが、何が自分をしているのか、本当の自分とは何なのか、じっくり腰を据えて見据えていきたいと思います。

平成二十六年葉月十八日

不動庵 碧洲齋