不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

義を見てせざるは勇無きなり

ちょっと恥ずかしい話しですが、留学後に入社した会社がいわゆるセクハラ問題があったブラック会社でした。最初からなのか、私が入った後からなのかは分かりませんが、入社した女性の基準を見るに、時々(?)というのはありました。

この会社にはまあ恩義もあり、色々なかなか出来ないような経験もさせてもらい、それはそれで有難くは思っていますが、個人ではどうにもならないこともあるんだなと、無力感を感じたものでした。

その会社は教育業を生業とする会社でした。事業内容はなかなか秀逸だったと思います。これを真っ当にやってさえいたら、今頃は非常に大きくなっていたと思うのですが、セクハラをしていた社長自ら、平家物語の文言を地で行くような生き様でした。それだけに非常に残念です。今は関西の片隅に4人目の奥さんと隠れるように逃げているとか。いくつかのことで訴えられ、莫大な賠償金を課せられたようです。身から出た錆、自業自得というのでしょうか。隆盛した末路の哀しさそのもののような今の境遇です。

この会社には正社員としては4年半在籍していましたが、その間にセクハラで私に相談された件数が3.4人。どうして私なのか分かりませんが、ともあれ私に相談されました。ひどい場合は恋人がいるのにセクハラまがいのことをされたりと、少しは知恵が付いてきた今だったら徹底抗戦をしたところですが、当時はそうすることもできず、大変苦慮しました。

遠回しに直訴したり、匿名で手紙を出したり、周囲の古参に相談したり。当時は正直の上にバカが付いたのでしょう、正攻法でやれることだけはやってみました。結局は被害者が退職することでしか収まらせることが出来ず、悔しい思いをしました。そういうこともあって、社長からは「全幅の信頼」にはほど遠いポジションでしたが(苦笑)、そもそも9割方は1年未満で辞めてしまうというブラッキーな社風もあって、私も20世紀末に退職しました。

いや、無力でしたね。自分の能力が無力というのもありましたが、それにもまして周囲の同僚たちに失望しました。在籍している人はそういうひどい環境下でもある意味自分たちの夢を追いかけている人が多かったのは言うまでもありませんが、だからこそ、会社のまずいところは直すべきだと私は思ったのですが、ほとんど無関心とか関与せずとか、逆に社長に向かって何を言うか、とかそんな感じでしたね。長いものには巻かれろ、というやつでしょうか。

私がこういう公の場で少しだけエラそうに言えるのはちゃんと行動を起こしたからですが、結局は会社で一番偉い人に逆らえるはずもなく。それでも知らぬ顔が出来なかったのが、この「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉でした。人の持つ欲望は正しい方向に導けば、非常に素晴らしい能力を開花しますが、この件のように地位も権力も能力あって階段を踏み外すととんでもない方向に堕ちていってしまいます。この人を見て、地位や権力や能力というものはかくも恐ろしきものかと我が身を戒めたものです。セクハラ以外にもこの方のために多くの人の人生が狂わされました。(それで訴えられました)普通だったら、そうなる前にさっと避けられるのが人間の本能なのでしょうけど、良くも悪くもカリスマ性があるとその判断というか本能を鈍らせてしまうものもあるのだと、ぞっとしました。

今はインターネットの時代ですから、こういうケースを世に暴かせることはかなり容易になってきました。そういう意味ではよくなってきたと思います。

私は基本、武門でも会社でも権力主義や権威主義には全く屈服しません。もちろん多少の妥協や協力はすることもありますが。初めからそんな立派なことがで来たというわけではありませんが、最近になって多分、私の星座である天秤座のごとく振る舞おうという努力はしてきたと思います。それだけに権力や権威をチラつかせようとする人に対してはかなり毛嫌いします。

正しいと思うことをする際は、どうしても他人の目を気にしてしまいます。

本当に正しいことは天から、もしくは心の奥底から絶え間なくささやいてくるものです。そういうささやきを聞き分けることが出来るようになったら、人目は気にしなくてもよいと、私などは思います。いつも正しいかどうかは別として、他人の目を気にすることで正しかったことがそうで無くなることはあります。

「義を見てせざるは勇無きなり」この意味する「義」は多分、人が本来持っている道徳観念のうち、我が身や心に少なからぬダメージがあるかも知れない行為だと、私は理解しています。「義」の漢字は「羊」を頭上に捧げた「我」ですから、やはり自己犠牲を伴うぐらいのつもりがないとできないことかと思います。確かにこれを恐れているようでは・・・男が立ちませんねぇ(笑)。

いつもこれができる人なんていません。100回決意して1回できればいいんです。「やった」と「やらない」との差は非常に大きい。そんな風に考えています。

平成二十六年水無月十六日

不動庵 碧洲齋