不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

一粒の想い

私はよく息子にご飯を炊いておくようお願いをすることがあります。3年生の終わりぐらいに初めて炊飯方法を教えてから、月に2.3回程度お願いします。さっきも頼みました。

最初はどうしても時間的に間に合わないから、とか、現実的な理由からでしたが、ある日の朝食の時、息子はぽつりと「一粒一粒の中にも仏様がいるんだよね。」と呟いてからは今まで以上に食べ物に対する意識が変わってきたように思います。

米粒とは言わず、砂粒、いや原子や素粒子の一つ一つにも仏がぎっしり詰まっている、だからこの世には尊くないものなどない、と、いつも息子と確かめ合っています。(それで先日、天上天下唯我独尊の意味をよく理解したのだと思います)好きなものと嫌いなものという、誰でも持ちそうな視点から、尊ぶべき対象という視点を、息子は心の中で持ってくれていることに感謝しています。

そういう意味では食べ物を残すという行為が世界的な環境にどれくらい負荷を掛けているのか、申し訳ない行為なのか、感覚的に息子に伝わったと思います。

正直、私が10歳の時は嫌いな食べ物も少しはありましたし、炊飯なんてしたこともありませんでした。やはり食べることに関わらせると、食べる行為に行き着くまで色々思いを巡らせてくれるものです。

家ではとりあえず私と息子は確実に一粒も残さずに食べます。そしてよほどマズイものでない限りは「世の中には美味しい食べ物と有難い食べ物しかない」と言って感謝して食べます。そして自分からは滅多に「これはまずい。」とかはいわないように心掛けています。アレはうまい、これはマズイ、私はそういう会話が一番好きではありません。これは前に息子と話したことでもありますが、食べかけのパンきれ一つに対して、普通の日本人なら眉をひそめますが、アフリカで飢えている人なら奪い合いになります。ただのパンきれに対してこれだけの差があります。そういう差は何から生まれるのか、どう向き合うべきなのか、私はよく息子と語り合います。そう考えるとうまいマズイという会話がそれだけ品性があるものなのか、いつも疑問に感じます。マズイものにでも感謝できるような人で今まで品位がない人はあまりいなかったような気がします。

そういう価値の押しつけはいかがなものかと、先日ある筋から言われましたが、私はそういうことに対して譲る気は全くありません。私はただ、息子が世界のどこに行っても敬意を持たれる日本人になって欲しいと思い、日々共に考えているからです。教えることもありますが、逆に息子の視点の鋭さに感心することもあります。そういうときは例え子供だろうが、私は正直に敬意を表します。

コメはたった一粒からですが、そのたった一粒からの想いなくしては成り立たない大切なことを、これからも息子と丹念に考えていきたいと思っています。

平成二十五年師走十六日

不動庵 碧洲齋