不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

稽古中の受けについて

古流の稽古では技を見せるために2人一組で技を掛け合うことは知られていますが、技を掛ける方は「捕り」もしくは「仕太刀」と呼ばれています。

稽古中でも当日稽古をする技を見せるときは、師が捕り、弟子が受けをします。当流では基本的には上段者から師の技を受けます。その理由は経験の浅い入門者に多く見せることによって、より多くの看取りの機会を与え、安全な稽古をするためです。

その受けについて、近頃思うこと。

同門や同じところで稽古をしている他流でも、受けをしている方々に「予定調和」が非常に多い。技を掛けられることを予定した攻撃が多い。師もしくは上級者に遠慮しすぎる人が多い。これでは正しく攻撃することもできなければ、捕りも正しい感覚で技を掛けることができない。

ブルール・リーは戦いの要素は力、速度、間合い、精度、拍子と言っていましたが、稽古で必要ないのは最初の二つ、力と速度です。理由は他の三つは相手がいないと稽古する意味が薄れますが、最初の二つは1人でもできるためです。

ガチガチに技にかかるまいとするのも問題ですが、同じくらい「予定調和」の技の掛け合いも問題です。正しい技は相手の正しい攻撃があってこそ成立します。正しい攻撃とは受けが正しい精度、正しい間合い、正しい拍子において発せられる技という意味です。倒せそうにない突きや手刀は全然意味がない。初めから技を掛けられるつもりの突きや手刀も全く無意味。それだけに留まらず、捕りが正しい技を見せることができません。二重の意味でよろしくない。

私が師の受けを命じられたときは、一礼した後からは更にヒョウのように歩んで構え、気配を最小限にして、心を読まれぬよう無心にして、全身全霊を以て我が技量の全てを叩き出して打ち込みます。速度と力だけは抑えますが、それでも避けなかったら普通の人なら間違いなく大怪我をします。同門と稽古をするときは最近は上位者よりは後輩が多いので、ある程度アドバイスができる程度の余裕は持たせつつ、しかしやはり力と速度以外は一切の妥協をせずに全力で攻撃します。人によってはこれがとても怖く感じるようですが、逆に言えばこの感覚を予め知っておけば、実戦に役立つというものです。

稽古だけの話しではありません。日常生活でもそうです。

禅でよく言われることですが、ただの一歩一歩、ものを掴む動作すら、一心にその行為に成り尽す、成り潰すぐらいの気持ちが必要だと言われています。ちょっとぐらい、すこしぐらいの気持ちが日々の生活にブレを生じさせ、それがそのまま自分の未来になります。今を完全に生き尽くすこと以外によい未来はないと言えます。そういう意味で、受けは全力で任務を果たすべく、己が技量、精神力のの全てを注ぎ込んで攻撃すべきだと思います。

受けでほとんど疲れない人がいたら、自分の攻撃がいかほどのものだったのか、もう一度思い返してみて下さい。

平成二十五年師走十二日

不動庵 碧洲齋