不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

誰がために鐘は鳴る

…の為に、という言葉がよく登場する。 「国民の為に」「皆の為に」「子供の為に」エトセトラ…。 この言葉は、使い方を誤れば刃物と同じである。 そして、厄介な事に、この「…のために」という言葉は、千鈞の重みを持って正論を堂々と退ける力を持っている。 更に悪い事には、この言葉は自分の考えが受け入れられない時、反論の重要な武器となる。 こうして「…のために」という言葉は、大概、誤った使い方をされるようになる。

栗元 久男「はばたけ天使達」

この言葉は20年近く前に友人から借りた本にあった言葉ですが、非常に共感したので書き留めておきました。

私の周囲にそういう人が散見されます。「○○のためを思って」「○○のために言っている」などなど。実は本当にその人のことを考えてくれている人ほどそんなことは言いません。本当にその人を案じている人ほど、そういう言い方はしないものだと言うのが私の見識です。

現実に本当にその人を助けてくれている人から、そういう押しつけがましい言葉は聞いたことがありません。もちろん私も本当に助けたい人にはそういうことを言った記憶もあまりないと思います。

自分の考えの正統性を信じて他人にゴリ押しをする人ほどそういうことを言うのではないかと思います。自分が正しいはずだ、相手も受け入れるはずだ、そういう思いが強いのではないかと思います。

ためになることであれば機微を見て黙って行うのが一番。全くないとは言いませんが、本来恩着せがましく言うべきものではないと思います。雅量にも欠けます。

信頼がある関係であればそもそもそんなことは言わないだろうし、なかったらいくら言っても意味がない。例えば日頃から嫌味、嫉み、皮肉、非難中傷をしている人が、いきなりコロッと「○○のために」と言ったところで「はいそうですか」など言うわけがない。もっともそれすら分からない人がそういうことを言うのではないかとも思います。

何でそんなことを書いたのかと言えば、最近政治家の皆さんの中にも「国民のために」という文句に重みを感じない人がチラホラいるからです。言うまでもなく市井の我々も気を付けたいところではありますが。

平成二十五年師走十日

不動庵 碧洲齋