道場創立を祈祷してもらう際は「武運長久」にしてもらっています。
今まで自分の道場と海外の同門二人分、全てそのようにしていました。
私の時は群馬の山奥にあるとある禅寺。
道場創立のために「武運長久」をお願いしたところ何とはなしにおかしかったのか、しばらく住職と二人で笑ってしまいました。
その後後輩たちがそれぞれ道場の祈祷をする時も懇意にしている神社の神主さんに依頼したのですが、やはりおかしくて笑ってしまいました。
武運長久は元々多くの武士たちが祈願したことであることは言うまでもありませんが、近年では大東亜戦争時、出征兵士らのたすきや国旗の寄せ書きに多く書かれていました。また、かれらが出陣するに当っては神社で武運長久を祈祷してもらったことでしょう。
私が祈祷してもらった寺や神社でももちろん、戦時中は多くの将兵のために武運長久が祈祷されました。
そして戦後はそういうことの祈祷を依頼する人はいなくなりました。
禅寺では私のためにわざわざ祈祷文を新たに起稿して頂きました。
神社でもやはり、新たに祈祷文を作りわざわざ陣羽織まで用意してくれました。
この感覚はきっと日本人同士でないと分からないだろうな、と思いました。
この「武運長久」は敵を撃滅するためではありません。
武運を以て日本文化を発信して世界に平和をもたらすため、昔と同じ願いで全く正反対の意味なのか、いや実は昔の人も同じ事を想っていたのか、そんな想いが思い巡ったのでしょう。
維新でも終戦でも日本武道はしぶとく生き残り、今でもなかなか隆盛なものがあります。
私はこれは日本の武道は敵を撃滅するため以上のものであるからだと思っています。
世の中、不要なものがのうのうと生き残れるほどに甘くはありません。
巨大な墳墓や建造物でさえ、不要だったら壊されるか、誰のものだったか分からなくなるほどです。
武運長久は一つですが、見方次第では全く逆になってしまうものです。
これに限らず似たような事は日々、身の回りには起きていないでしょうか。
祈祷を終えた後、思いました。
こういう祈りが今の平和な時代に行われるのは何とも不思議な気がしますが、日本人としてそれに違和感を感じません。昔の人たちの心に触れた気がします。
軍国主義とか尚武精神とか言うのは人で言えば衣のようなもの。人そのものではありません。真摯に祈ることによって、その人そのものを感じることができるものだと思います。
着ているもので判断することは、その人を判断して事にはなりません。
住職や神主さんも同じようなことを言って、逆にこういう祈祷が出来たことを感謝されました。特に神社では米国人と露国人の道場のための武運長久を祈ってもらいました。これが平和でなければ何なのでしょうか、という究極の所にいたような気がしました。70年前は米国軍撃破のために将兵らが武運長久のために訪れ、今は日米の架け橋のために米国人がやはり同じ武運長久のために訪れる。全く逆の立場の人たちが同じもののために祈りに来る。私はこういうところに何か平和のヒントが隠されているような、そんな気がしました。
こういう小さなところから、自分にできる和の実現を努力していきたいところです。
米国人と露国人の武運長久を祈祷したことがある神社はそうないでしょう。
平成二十五年師走朔日
不動庵 碧洲齋