不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

臘八大接心

禅宗の僧堂(正式に禅宗の僧侶になるための専門修行道場)では、12月1日から8日の朝まで、臘八大接心という行事があります。お釈迦様は12月1日から8日朝までブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を組み、8日の朝の明けの明星を見て悟りを開かれたといわれています。それに倣って修行僧も12月1日から8日朝まで不眠不休でずっと坐禅を組みます。 実際には僧堂によって少しは睡眠時間があったりしてまちまちのようですが、例えば臨済宗では3本の指に入るほど厳しい修行で知られている鎌倉建長寺では、つい最近まで本当に全く寝なかったそうです。今は中日(4日目)に座相を崩さないままの坐睡という形で1時間だったか2時間だったか、休むことが許されるようになったそうです。師匠曰く、7日間も寝ないと本当にものを考えることができず、夢か現実かという見境までなくなるそうです。接心と呼ばれるこういった集中坐禅期間は年に何度かありますが、この臘八大接心が一番きつい接心という事です。(だから命取りの接心とか言われています) 私が通っている寺ではこの期間中は毎日19時20時まで坐り、臘八示衆という在家向けの禅の講話を提唱されます。いつもは早朝にやるのですが、この時期だけ夜に坐るので、不思議な感じがしますが、たまにはいいものだと思います。12月は坐るにはまだそんなに寒くはありません。本当に寒いのは1月と2月。これは本当にやる気がある人でないと来ません(笑)。もちろん、老師もそういう時期に来る人をよく見てます。 私はどの坐禅会でも大抵30分前には坐るようにしています。つまり最初の1回目は1時間坐ります。それでも僧堂の雲水さんたちからしてみたら微々たるものです。家でも少しは坐りますが、出家に比べるべくもありません。もちろん禅はただ坐っているだけではなく、日々の行い全てが修行ですから、日々どれだけそれを意識しているかが問題です。 禅で悟りとは言わずとも、何か閃くことがあるときは大抵、じっくり煮詰まってきたものが発現する場合ではないでしょうか。熟した柿がぽとりと落ちるような感じ。だから坐ることもじっくりするなら動中の工夫も禅と離れず行い、その結果として何をか得られるようなものだと思います。私の経験では立派な禅堂で(私が行っている寺には立派な禅堂があります)ちょっと坐っただけで何か得られると思ったら大間違い。世の中そんなに甘くないです。そういう雰囲気でそういう気になっているだけです。ま、形から入るのも結構ですが、実を伴わないとダメです。 禅の漢字はしめすへんに単の漢字です。しめすへんは神事に使われることが多いですが、要するに神様への供え物、単は要するに1人です。私的には誰に何に依存するでなく、自分自ら事を為すという姿勢が禅だと思っています。とちょっとカッコ良いことを言ってしまいました。しかし周囲に合わせてとか様子を見ていてでは自分の修行は一生できません。やはりお釈迦様がおっしゃったようにサイの角のように自分の修行を驀進するぐらいの気持ちがないとダメなのではないかと思います。言っていて自分も少々恥じるものはあります! そういうことの総決算として、毎年の臘八坐禅会に参加しています。幸い、ここ5年ぐらいは会社からもそう遠くはなく、時間的にも十分間に合うのでほぼ毎回、毎日参加しています。 私が初めてそこの坐禅会に参加したとき、提唱のときは老師の座っているところからずーーーっと遠くの席でした。しかし6年経って今ではすぐ近くに座っています。弛まぬ努力をしていたとは言いません、禅の魅力に引き込まれたようなものです。老師も最初の3年ぐらいは私を名前で呼んだことがありませんでしたが、初めて名前で呼んでくれたときはじんときました。 そう思うと日々の細事に至るまでおろそかにせず、それらの仏性を全うさせてやるべく丁寧に慎重に事を完了させる。そういうことの繰り返しが禅の重要な部分ではなかろうかと思います。 ここで坐ります
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平成二十五年霜月三十日 不動庵 碧洲齋