不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

母の命日

昨日、霜月四日は母の14年目の命日でした。

恐るべきかな、すでに14年も過ぎてしまったのかというような感想です。

先日墓参りに行ったばかりなので別段何かすると言うわけではなく、いつも通り朝の読経をするだけです。

私は毎朝、般若心経と不動経と不動真言、消災咒と四弘請願文を唱えます。

命日や長く家を離れるときや多少特別なときは開経偈、懺悔文、三帰依文、延命十句観音経、普回向など、気分で適当に混ぜます(笑)。

母は1999年の5月の確かゴールデンウィークの前日だったと思いますが、急に倒れて救急車で運ばれていきましたが、子宮がんでした。医者からは半年と宣告されて文字通り半年でした。享年58歳。ちなみに母方の祖母も同じ58歳で同じ子宮がんで亡くなっています。

人がどんどん死に近くなると、周囲はある程度覚悟ができます。心臓が停止したピーという電子音もどこか他人事だった気がします。ただ、そういうことよりは父が可愛そうだったなと思ったものでした。

母は結婚するまでとても貧しい家庭でした。戦争で父親が戦死して、母(祖母)が再婚したものの、その相手も別の女と駆け落ちしてしまったとか。その人の間にできた子供と、戦災孤児一人を合わせて合計5人の子供を女で一人で育てていました。住所はかつてサンヤと呼ばれた南千住界隈。

子供の頃から貧しいときの暮らしをよく聞かされました。父の実家の方は逆に優雅な商人だったので、その対照的な生き様に驚いたものでした。

母が中学校を卒業して、数年間ほど金持ちの親戚筋に奉公に出されたときに書いたと思われる日記が手元にあります。全部読めませんが、昭和31年から数年間といえばまだ日本は豊かではなかったとは言え、戦後からは既に11年、社会全体が明るくなっていた頃だと思うのに、母の奉公の苦労たるや、大変なもののようでした。日記は時々書かれていて、結婚式の前日だったか当日だったかで終わっています。

今、自分は結婚して子供がいますが、この状況でそれを読むのはなかなか辛いものがあります。まだ通しては読めません。子供の頃から死ぬまで言われ続けてきた、口うるさいことも今になってその意味が理解できます。きっとこういうのを親不孝というのでしょう。この日記は私の最大の理解者である息子に受け継がせるつもりです。この日記は私以外はまだ誰も読んでいません。息子だけは私の言わんとすることをよく理解してくれています。

祖母が夫を戦争で失ってから大変苦労し、病床についたときに初めてゆっくり考える暇ができ、そのとき初めて夫を殺した米国の人たちと語り合うことの重要性を悟り、アルファベットの勉強をし始めたそうですが、それを聞いて母は私を英会話教室に行かせてみたり(すぐ引っ越してしまった)、同門の外国人門下生を喜んで家に招いたり、私を留学させてくれたりしました。今私は世界中に同門、友人がいて、毎年仕事や私事で海外に行っています。また、インターネットを通じて仕事でも武芸や禅でも英語で海外の人たちと交流を持っています。日常的に外国人と接することは私にはごく普通の日常です。ここまで3代かかりました。やっと3代かかって、かつて敵だった人たちと分かり合えた気がします。

息子は10歳ですが、3歳の時に祖父が増援に向かおうとしていたサイパンに1年ほど、妻の仕事のために滞在していました。そして2回もロシアに行っています。私の国際的な広がりとは比べものになりません。息子たちの世代は普通に宇宙から地球を見て、国境などと言うシロモノは人が勝手に作ったものであって、宇宙からは目に見えないと理解できる世代だと思っています。そうでなくてはならないと信じます。

今の世の中は寒い人や国家が多くいます。敵を作り敵を罵り、敵を消滅させることが平和だと勘違いしている輩、国家。また、そういうくだらない憎悪の炎を燃やすことだけでしか自己のアイデンティティを確立できない人、国家。人の有様は元来、そんな卑小なものではないと考えます。私が垣間見た世界はたぶん、そういうものではないと思っています。世の中、宇宙はそういう風にはできていないと考えます。そういう風にできていないから、あちこちに矛盾があるのだと思っています。

息子やその世代にはより広い世界を見てもらい、人類を本来あるべき方向に導いてもらいたいと思っています。

平成二十五年霜月五日

不動庵 碧洲齋