不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

肩の力を抜く

今日は会社にいてもヒマなので、自分のデータを読み返してみました。

そこそこある私のデータベースの中に「我が友に贈る」という、聖教新聞に日々の活動の指針として毎日掲載されているものがあります。

日本語学校を退社する少し前、初めてパソコンを買った頃でしょうか。1998年頃から2003年、息子が生まれる少し前ぐらいまで、散発的に記録してありました。

記録してあるのはもちろん創価学会会員に特定された文言ではないものに絞ってありますが、たぶん当時は心惹かれたものがあったのでしょう。恐らくメルマガからコピーしたものだったと記憶しています。

例えばこんな感じです。

戦う人生は常に充実。敗北の人生はわがままで暗闇。人生は 一生 戦い!

希望がなければ自分でつくれ! 人間の無限の力を引き出すのが信心だ!  991006

人生は万事"確信"で進め! "誠実"で勝て! その源泉が唱題だ。 991116

対話は生命の芸術。相手の心を開くことだ。 そして 心をつかみ心に打ち込むことだ。 011102

貫いてこそ信心! 果たしてこそ使命! 戦いきってこそ 地涌の勇者! 991128

今日一日を強く生き抜け! そして今日一日を悔いなく 価値ある人生を! 011104

事実には説得力がある! 体験こそ心をつかみ心を動かす原動力! 011110

戦いは勢いで決まる! リーダーの先手、先手の知恵と行動で決まる! 011115

対話は相手を思いやり「心を知る」ことだ! 傲慢では心が わからない。 011116

慈愛の励ましは善の心を引き出す! 勇気の言論は邪悪の心根を絶つ! 011117

数字は日付です。

私の周囲には今も昔も新興宗教系の人がいますが、私が接してきた限りでは創価学会会員や立正校正会会員の方々は基本的には仕事や学業には非常に熱心な方が多かったという印象でした。もちろん勧誘してきたりというのもありませんし。一般の会員に限って言えば、個人的に悪い印象を持った人はいません。

とはいえやはり色々取り沙汰されているのは組織のどこかに問題があるからでしょうか。全然問題を起こさないというのも逆に問題ですけどね。そういう新進気鋭の気概がない組織ばかりというのも健全な社会構成に於いては大いに問題です。

上記はいちいち確かに納得させるものがあります。当時の私にはなるほどと思い、勇気付けられてきた言葉なのだと思います。

(こういう言葉をそのまま信奉すると、やっぱり世間様といがみ合うような気もしなくもないですが・・・)

息子が生まれてきた頃からはぱったりとこれの記録がありません。

この頃、たぶん武芸的にトンと一つ伸びたものがあったのだと思います。

人によっては少しずつという人もいますが、私の場合は3.4年か5.6年ごとに1度、ドンと伸びる、階段のような伸び方をしますが、それは丁度2003年頃にあったのでしょう。

力を抜く、です。

スッと力を抜く、ということですが、更に言えばそのスッというのも分からないほどの力の抜け方です。威圧してきたら威圧も吹き抜ける、攻めてきたら脱力で受け流す。こういう事だと思います。

上記の言葉はエネルギッシュと言うよりもアブラギッシュな肉食系のパワーワードに満ち溢れています。ま、若者であるうちは逆にこういう言葉に感化されないとイカンとは思います。しかし武芸を突き詰めていくと、こういう言葉の感覚ではとてもまずい。要らないいざこざや、避けるべきトラブルまで追いかけてきてしまいそうです。

北斗の拳ドラゴンボールではありませんが、敵を倒したらもっと強い敵が現れたなんて、これは相当まずい武芸者のすることです。

肩を怒らせている人の隣にいて気付かれない、とか、微笑まれたら思わず肩の力を抜けさせられた、そういうレベルが私が狙っているものです。技術的な強さはもちろん必要ですが、スポーツ格闘技ではないのですから、まずそういう処です。

上記のようなモーレツな使命感、燃え上がるような使命感を持つこと、触れてみることはとても大切ですが、武芸者としてはどうなんでしょう。私にはちょっと違和感を感じます。

そういう感じの人と対峙したら、相手の心が動いた瞬間、体が動く前に読めてしまいそうな気がしなくもありません。大げさかも知れませんけど。

たぶんこの次ぐらいから私に色々詩心が出てきて、武芸者としての心情をヘボい短歌にし始めたように思います。ヘボさは未だに直りませんが、とりあえず素直に出てくるようになりました。

いのちはむかし

どこかでうまれ

だれかがはこび

あなたまでたどりついた

だから

あなたもまた

そのいのちを

だれかにおくらねばならない・・・

2004/10/04

随分前に書いておきながら、つい先日初めて、体感として理解できました。

そういうレベルの人間が、思う処を書き綴りました。

平成二十五年霜月三十日

不動庵 碧洲齋