二人で夕食後、息子が急に言いました。
「お釈迦様ってさぁ、産まれた時、片方の手を上で片方の手を下にして、何て言ったんだっけ?」
「ああ『天上天下唯我独尊』だな。」
「どういう意味だっけ?」
「全宇宙で私が一番尊いってことさ。」
「でもそれは『自分』ってことじゃないよね?きっと。」
「ああ、何のことだと思う?」
息子はしばらく考えていましたが、もう少しのようでした。
「それ仏のこと?」
「そうだな。で、その仏はどこにいる?」
息子は戸惑ったように言いました。
「どこって・・・仏はどこにもいるよ。だって、この世はみんな仏だもん・・・」
「じゃあお釈迦様が言った『私』って何のことだ?」
息子はパッと分かったようです。
「ああ!そうか!全宇宙か!そうだ!お釈迦様は『全宇宙にあるものはみんな尊い』って意味で言ったんだね!」
私は頷きました。
「パパの師匠や偉いお坊さんたちはそれを悟ることが出来たんだな。自分というのは宇宙全部そのものだと感じられた人たちなんだ。宇宙の隅々まであるそのものが自分であると理解した人たちだ。」
息子はやや興奮気味に、だからあの人とこの人とか、あの国とかこの国とかいう違いがあったり、違いのために争ったりしたらいけないんだねと、かなりの理解を示してくれました。私が一つ言うと、最近は5.6ぐらいはポンポン理解します。
で、手元にあったパスワードなどが記載されたメモの束を見せました。
「でも今の世の中は自分が自分であることをいちいち証明しないといけない時代になってきてしまったんだ。このID番号とかパスワードを幾つも持って、いちいち証明する。分かる?この意味?」
「うん」
「お前の体だけ、パパの体だけを切り取って、それだけをむりやり証明させようとする。そしてそれを『我』だと言わせようとする。」
「それはだめだよ、仏がどんどん小さくなっちゃうよ。」
「そう、本来は宇宙全体であったはずなのに、どんどん人が仏を小さくしてしまった。だから人は争ったり心の病気になったりするんだと思う。」
息子は宇宙に行けばもしかしたらそれを感じることが出来るのではないかと思っています。
自分が自分だと思い、何かにつけて自分を勘定に入れる人には品位がありません。
自分を勘定に入れずに何を行動を起こす人には品格があります。
そんな高級なことでなくても構いません。
戦いにおいて、自分の生命の安全を勘定に入れる人は大抵負けます。
自分を空しゅうして戦う人が最終的に命を全うできます。
基督教も同じです。
本物の愛もやはり、自分が地獄の業火に焼かれている時でさえ、人を想えと言っています。
道家の荘子には髪の毛一本で人が救えるとしたら、あなたは抜きますか?という問いに、荘子は「抜かない」と応えました。私は高校生の時からこの説話は知っていましたが、その時はエゴイズムの極致だと想っていました。
これは片方が至高の愛で片方はエゴイズムだという視点ではなく、どちらも尊い仏だと考えれば矛盾はないと考えます。どちらがどうのと言う相対的な見方ではなく、絶対的視点で観ればどちらも尊い仏であることが分かると思うのです。
私はこれを理解できたのは不惑を過ぎてからです。息子は志学前にそれを理解してしまいました。
多分これからもっともっと理解を深めていくことと思います。
私などが及びも付かないほど、深く高く、それに触れることだと思います。
そう考えながら子育てをすることは、私の喜びでもあり、誇りでもあります。
10年前の我が家の唯我独尊くん
平成二十五年霜月二十九日
不動庵 碧洲齋