不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

感謝する基準

禅的にはあまりよくないと言われますが、私は最近、よく自分の言動を省察します。

その中でも特に、感謝するという行いに関してよく考えることがあります。

人は往々にして自らの利益にある程度助力してくれた人に感謝の念を持ちます。

そしてその程度を寛容さなどと称しています。

作家の故三浦綾子さんの言葉です。

「人間は十の内九も助けてもらっても、助けてくれなかった1に対して不満を言う。」

いつだったか私はこの言葉を知ったときから、人の狭量さを恐れるようになりました。

最近思うことは、人に感謝するときはその成果にではなく、その人が持ちうる器をめいいっぱい活躍させて成した行為に対してでありたいと思います。バケツのような大器を持った人もいます。杯のような人もいます。問題なのは、その持って生まれた器をどのくらい有用に活用したか、という点。平たく言うと人はいつも力の限り精一杯生きよ、ということ。私などは全くそうではありません。

例えば禅友の中には1日1万歩をノルマにされている方がいますが、これなどはまさに「力の限り精一杯生き」ている方だと思います。怠惰な私にはとてもとても。

1日1禅も難しいときがあります。毎日の勉強もままならず。時折自分で自分をぶっ叩きたくなります(笑)。

大器の持ち主が躍動する様はそれはすごいものだと思います。ビジネスマンや実業家、その道のプロなどがそうあった場合は、本当にとてつもない力を発揮するのだと思います。もちろんそれに惹かれてどんどん色々な器の人が助けたりします。それが社会のありようなのかなと思います。

聖書に貧しい老婆が古びた財布から取り出した全財産である1枚のコインを喜捨した様を見て、イエスが讃えるシーンがあります。イエスは金額ではなく、彼女の全身全霊を込めたその行為そのものを褒めています。できたら人はこのようでありたいと思います。

ま、現実には競争社会においてはそんな生易しいことは言っていられないのは確かですが、こういう心根を忘れると、いささか寒い人間になってしまいそうです。

などと思った次第です。

平成二十五年長月十七日

不動庵 碧洲齋