不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

陶芸に想ったこと

いつだったか、益子で陶芸を見せてもらったことがあります。

私は芸術には疎いのですが、その説明を聞いている内に、ふと思うことがありました。

良い粘土を選び、正しい方法で練る。

そして正しく形作って施釉する。

さらにそれを窯で焼く。

そうやって初めて役に立つようになります。

これを人生に例えるとなかなか奥が深いと思ったものです。

学志:良い粘土を選び、正しい方法で練る時期。

而立:正しく形作って施釉する。

不惑:窯で正しい温度と時間で焼く。

天命:用途に応じて用いる。

人によっては早成晩成あるとは思いますが、工程は同じだと思います。

その時季が分かる人はやはり秀逸なのでしょう。

私のような凡俗では想像も付きませんが。

人は幾つになっても学業をおろそかにすべきではありません。

私もこの歳でロシア語をボチボチやってますし、30代ではIT系も勉強しました。

それをどのように熟成させて世に役立たせられるか。

この辺りまで考えられるようになりました。

ろくろを回す時期は過ぎましたが、窯の中で焼かれている間は信念なり覚悟なり技量を焼き固めるのが吉かと。

窯のふたが開けられたとき、世に役立つか否か。

自分が何ものか分かれば良いのですが、最初はちょっとモノがいい盃ぐらいに考えればいいと思っています。

それが茶器なのかどんぶりなのか、それは世に奉仕してから分かろうというもの。

それは私が決めることではなく他の方が決めること。

自らはひび割れや欠けたところがない、器であろうと努力する以外にはありません。

また、粘土選びで窯の中を思っても仕方ないのと同様、用途によって用いられてから形の心配をするのもまた無駄なこと。

だから自らを慎み、他を見定めるときは慎重でありたいと思います。

盃をバケツ代わりに使う愚はもちろんのこと、バケツを茶室で用いるのもまた愚。

正しい用途に応じた使われ方にあって、器は最大の効果を発揮させられるべきです。

盃に2Lのペットボトル入りコーラを注いでこぼした場合、器を見定めなかった自らに非があります。

結局、艱難に対して逃げたり避けたりせず、今の自分にできることを最大限にする、それ以外に道を拓くよりよい方法はないものだなぁ・・・と思ったりしたのでした。

平成二十五年長月十五日

不動庵 碧洲齋