不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

国民の幸福度?

いつだったか、同門美人後輩が料理の修業と観光を兼ねてイタリアに行って帰ってきたときに、こんな話をしました。

「イタリアだからフェラーリとかランボルギーニに乗っている人も多いんだろうね。」

「全然!みんなボロボロの車に乗って、生活が大変なことも多いけど、朝起きて広い庭で美しい景色を見ながらみんなで朝食を食べる、こういうのが本当の豊かさなんでしょうね。」

私もこの意見には全く賛成です。

何かを統計化したり比較する場合にはどうしてもデータを数値化しなければなりませんが、クレジットカードのCMのように、世の中には”priceless”という要素が大きく絡んできているはず。幸福度などはその最たるものではなかろうかと思います。

そういうものを比較する米国のお馬鹿な大学の神経も分かりませんが、そんなものに一喜一憂する国民のレベルも(幾つかありそうですが)底の見える浅はかなものに映ります。

隣の家の青い芝を羨んでいるうちは幸福ではありませんが、自宅の庭の素晴らしいところを見つければ何か真理を得られます。私も凡俗の徒ですから大金があればいいなぁとは思います。6億円ぐらいあれば1億円程度、家を建てたり子供の教育や必要かつ欲しいものに使ってもおつりが来ます。残り5億円は貯金しておけばその利息だけでも平均以上の生活を営めます。いいなぁとは普通に思います。

まあ、そういう執念が強い人はそれに向かって稼げば良く、その家庭で何か大切なことを学ぶのではないかと思います。それはそれで何か有意義な気もします。私の場合は息子からの視点がほとんど全てです。預金の利息だけで暮らしている人間は社会に有用ではありません。(働いていなければ)仕事もせず、もしくは糧を得るために懸命に働いておらず、家でのうのうとしている人間に敬意を持つほど、息子はアホではありません。労働の尊さをよく理解しています。お金は社会に貢献した対価として還元されるべきものだといつも言います。

良い/悪い、好き/嫌いという感情は人間なので持って然りですが、それは電車に乗っているときに通過する駅の如く、流してしまうべきものだと思います。世の中にはため息が出るほど佳い女性があまたいます。神様は意地悪じゃなかろうかと思うくらい、私の周囲にもいます。しかしそれでも今の妻との間に生まれた息子で、日々自ら信じていることを諭している以上はその行為そのもので在り潰れるべきだと思っています。会社の待遇にケチを付けるより、カミさんの態度に腹を立てるより、息子が作るであろう未来がよりよくなるように、教育に心血を注ぐ、言ってみればこれが私の幸福と言えます。それに比べたらカネがある、ストレスがない、なんていうレベルの幸福は自分にとってはあまり重要ではありません。お金が必要ではないと言うことではなく、道具と目的をよくよく分けて考えるべきだと思います。

その辺りが国によってか人によってか分かりませんが、曖昧だと統計もあまり役に立つものだとは思えません。そもそも幸福にランクを付けること自体、卑しい所行のような気もします。スケールダウンして言えばそれは右隣の家よりは左隣、左隣の家よりうちの方が幸せ、と言っているようなもの。きっと推し量っている人にはpricelessのものは見えないのでしょう。

あると思えばあり、ないと思ったらない、幸福はそういう類のものだと思っています。

平成二十五年長月十一日

不動庵 碧洲齋