辞書で「人」と「人間」を調べるとこんな風に出てきます。(国語辞書:大辞泉)
「人」
1 動物分類学上は、霊長目ヒト科の哺乳類。直立二足歩行し、手で道具を使い、大脳はきわめて発達し、複雑な言語をもつ。多様な文化を伝承し、地球上で最も栄えた文明をつくり上げている。現生種は一種だけ。学名はホモ‐サピエンス。人間。人類。
2 個々の人間。ある特定の個人。「裕福な―」「大阪の―」「目上の―」「―は一代、名は末代」
「人間」
1 ひと。人類。「―の歴史」
2 人柄。また、人格。人物。「―がいい」「―ができている」
何か分かったような分からないような説明です。
ちなみに英語で調べるとこんな感じ。
(和英辞書:プログレッシブ和英中辞典)
「人」
1.human beings; man
2.〔個々の人〕a person; a human being; 〔男〕a man; 〔女〕a woman; 〔不特定の人〕someone, somebody
3.〔世間の人々〕people; 〔他の人たち〕others, other people
「人間」
〔人〕a human being; 〔人類〕man, mankind, humankind
(英和辞書:eプログレッシブ英和中辞典)
「human being」
人,人間. 単にperson(人)の意にも用いるが,動物・物との対比を含むことが多い
「mankind」
人類;*1人間
「humankind」
(集合的に複数扱い)人類;人間
やはり英和・和英でも分かったような分からないような・・・。
私的には個々の存在(を内包している精神や人格も)を「人」、社会を構成している状態を「人間」と分けています。
簡単に言うと、私たちは人ではあるが、環境的には「人間」 ロビンソン・クルーソーさんは環境的にも人、とこんな感じで捉えています。
「人間」の「間」は「人と人の間」であることは間違いなさそうです。だから一人では間は作れません。
何が言いたいかというと、自分は自分で自分を「する」以上にはなれない。自分を認めたり、自分を知ったりすることはできない。自分と他人を比べるのはある意味、重さと長さを比較するようなものではないかとさえ思います。
例えば福山雅治さんは男の私から見てもとてもカッコイイ。私と同じ年にはとても見えない。
・・・でも宇宙開闢以来、そして宇宙終焉まで福山さんはたった一人、たった1度きりの存在です。そういう私もそうです。そして違う時代に生まれていたらと言うのもなく、同じ年に生まれついたという状況も同じく二度とありません。
そういう因が縁を持つことはまるで海にあって波のようです。海の波形は二度と同じにはなりません。
なので誰かを羨むよりも自分で有り尽し、有り潰以上には社会にあって自分の存在を有効活用する方法はないのではないかと思ったりします。
禅では自我などないと定義しています。自我は例えて言えば海の波の波頭のようなものだと私の師は言っています。仏の波に時々波立つものでしょうか。私という存在もないのだとしたらどうして私という言葉があるのでしょうか。私を認識してくれるのは必ず他人です。でもその各々の他人もそれぞれ自分を認識できません。そんなあやふやな存在の中に私があるとも思えないのですが・・・。
そこで思ったのが「人間」の「間」。私という思念は人と人の間にあるのかなと言うことです。確かに他人のためにアクションを起こす、他人のために何かをした場合はアクションを起こした存在とその対象を繋ぐ橋のようなものです。そんなときは「間」に自分があるのかも知れません。だからエゴイスティックな言動やわがままな振舞、自分勝手な行動が世に受け入れられないか、みんなそうするとどこぞの国のようなひどい結果になるのだと思います。
そういう意味ではボランティアとか自分を勘定に入れない行動、自分を無という禅の在り方もなかなか論理的なのかなぁ・・・と朝っぱらから思ったりしたのでした。
なかなかうまくまとまりませんが・・・(苦笑)
平成二十五年葉月三十日
不動庵 碧洲齋
*1:集合的