昨今、子供の教育というものがエラく面倒になってきたように思います。
妻が勤務する保育園でも非常に膨大な量の事柄がマニュアル化されていますし、息子が通う小学校でも事細かに色々決められています。
学校生活、勉強、放課後、休日の過ごし方、携帯の利用について、お金の使い方について、祭りに行く場合、個人情報の取り扱い、ネットの利用方法などなど、挙げたらきりがありません。
私はいつも、根幹の部分で押さえ、それ以外はあまり言わないようにしています。
(その辺りは妻がフォローしてくれますので、そういう意味ではありがたいと思ってます)
私の場合はそれは禅仏教であり、日本の歴史と伝統、そして武道です。
良し悪しはほぼ全て、これらに照らし合わせて息子に諭すか話し合います。
親の方が偉いなどと思いません。親も努力している姿を見せています。
子供には努力している対象を見せるようにしています。
子供にはこれらを鑑みて、交友関係を見定め、善悪の判断をさせるようにしています。
今時の教育の怖いところは何でもマニュアルに沿ってやっていること。
その場合、子供はできるところはよくできても、できない部分は全くできなくなってしまいます。
できないところを如何にやるか、できないところをどのように諦めさせないか、マニュアルが最も苦手とする部分です。
忍耐には信仰が必要な場合があるかもしれません。道徳意識には日本国民としての伝統や意識が必要かも知れません。
そもそもマニュアルはできるところを既知の部分を如何に省力化するか、合理的にするかを書き出したもので、未知のことに関してはほぼ無力です。
そういうところでは私は人だけが持つ能力に期待を寄せます。
毎朝読経をして、事ある度に息子と共に仏壇前で祈ったりする。
日常でも命の尊さ、仏の尊さを語る。
暴力の在り方、武道のあるべき姿、忍耐の素晴らしさを語。
日本の歴史、伝統を紐解く。
息子を見て何をか言うのではなく、息子と共に然るべき方向を見定める。
そういうことをしていく内に、子供は自分で判断するべき基準を持てるものだと思っています。
少し例が違うかもしれません。
戦争が起きてから軍艦を作れば、まともな対応だと勘違いしやすいですが、艦長が一人育つのには10年もかかります。
腹が減ってから稲を植える方がよほどましだというくらいです(笑)。
人の教育は須くそのようなものだと思います。
故にマニュアル教育は便利であるが故によくよく考えたいところです。
(マニュアルに基づく教育全てが悪いとは思いません)
携帯電話の利用について議論したり、交友関係に一喜一憂するなら、親はこういった根底の部分でしっかりと子供達に精神の根幹を育成させてやりたいものです。
平成二十五年文月二十三日
不動庵 碧洲齋