不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

浮かぶ瀬

禅林世語集という本にこんな短歌が載っています。

「谷川に 落ちて流るる 栃殼も 身を捨ててこそ 浮ぶ瀬もあれ」

オリジナルとは微妙に違いますが、空也上人(903~972)という方の句のとされています。

簡単に訳すと、谷川に落ちてきた栃の実も 一切合切の思念を捨て去ることで 沈まずに浮いていられる(広い下流へと流れる)というような意味合いです。トチの実は栃餅として食べられているように、江戸時代は飢饉の時の代替食料としても食べられていたとか。言うまでもなく縄文時代には常用食でした。栃「殻」なのに「身」を捨ててこそ、というアイロニーがおもしろく感じます。栃の実をどのように見立てているのか分かりませんが、緊急事態の食料という事から、普通の食べ物よりはランクが低いかのように思います。それですら、身を捨てれば浮かぶ瀬もある、と言っています。

下の句はよく使われているので有名ですが、武道歌や禅で色々な上の句があります。私の持っている資料から幾つか紹介します。

大水の先に流るるとちからも 身を捨ててこそうかむ瀬もあれ

大水の前に流るる橡(とち)殼も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

惜しみても惜しみ甲斐無き憂き身をば捨て果ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

事足らぬ事な思いそ鴨の足短くてこそ浮かぶ瀬もあれ。

当流の宗家が以前言っていました。

「相手を掴むと言うことは、相手から掴まれているのと同じ事です。」

相手を掴むと勝機が近そうに感じますが、その実何も変わらず、危機だけがロックされた状態になります。

当流では流れの中に勝機を見ると言われています。個人的には空手か何かに使われている「静中の動、動中の静」が一番しっくりきます。

何かに固執していたり、居着いたりしていては生き延びられません。ハッとしたらフッと動けるぐらいのものでありたいと思い、日々努力しています。どうしても離れられない、どうしても手放せないのは自我を勘定に入れているため。自分を勘定に入れなければ無常を通じて生に還る。沸き立つ想念や奢る幻影を排除した先に、各々の瀬が現れるような、そんな気がします。

日頃から心血を注いで打ち込んでいる武芸や禅すらパッと擲てるぐらいの心積もりがあれば、思わぬところで躓くこともありません。精魂込めて諸芸に打ち込む、それでいてぱっと捨てられるぐらいの心構えを持つ。禅ではそのような境地を良しとしていますが、日常生活でも我々はあまりに様々で些末なことを思い煩い、囚われすぎているのではないかと思っています。

平成二十五年水無月二十五日

不動庵 碧洲齋