不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

侍と武芸者

私は日頃から自身を「武芸者」と位置付けています。

何故武芸者かというと、それはある意味生き延びることにどん欲な指向性があると思っているからです。

侍、武士と呼ばれる人たちは名誉や誇りを重んじ、主君に忠誠を誓い、その為に命を賭け、例えば恥を注ぐために生命を賭することを厭いません。江戸時代までいた、侍達の生き様です。

一方で武芸者という種類の人がいます。仕官したり、栄達を求めたりすることなく、純一に自分の武技を極めることに精進して、いかなる状況をも生き伸びる術、生き抜く知恵を獲得する人たちです。これはあまり歴史にフォーカスされることはありませんが、そういう人たちもいました。土着の草民などに継承された武芸などがそれです。

一般的に考えられている武道は多分前者ではないでしょうか。社会通念に照らし合わせて前者の方が奨励しやすく、栄えあるものに違いありません。

私が籍を置く流派では忍術を継承しています。ステレオタイプではありますが、基本忍者は任務のために死なずに戻ってくることが重要とされています。格好良く死ねるシーンがあってもそれはいけません。格好悪く生き延びるシーンがあったらそちらを選ばねばなりません。裸踊りで危機が抜け出せるならそうせねばならないのです。武技、忍術以前の話しです。そういうことをする集団がもう一つあります。それは盗賊の集団。彼らも命を賭けて押入って金銭を盗み、それを使わねば意味がないですから、どんなに恥をかいてでも逃げて生き延びようとします。では忍者と盗賊、何が違うのかと言えば、それはひとえに「正しいこと」に従事するか否かです。

この「正しさ」は相対的なものかも知れません。敵味方に分かれても両方の事情によく精通して、公平にジャッジできる人などまずいません。大抵は何かの縁で近い方の側で判断し、そちらが正しいと信じているだけです。そもそも絶対的な正しさなど在りはしません。反対側の人からすれば、理屈の分からぬ敵になるわけです。忍者は多分、侍よりは縛りは少ないかも知れません。私はいつもそう思って、相対的な視点による彼我では比べぬように努めています。所詮人間の概念は狭く、敵か味方かで考えた方がとても楽なため、どうしてもそういうオチで済ませたくなりますが、私なりに努力した結果、彼我、敵味方という偏光グラスをかけることはだいぶ少なくなってきたように思います。

縛りの少ない、フリーハンドが多いポジションを駆使して生き延びる。忍者はそういうことに長けていたのではないかと勝手に想像しています。そして武技や術もそういうものに特化していたのではないかと想像します。

故に何が何でも生き延びる、どんなことをしても死なない、そういう条件を課された場合、華々しく散ることがよいとされる武士とは違う理念で行動するものだと思います。卑怯な手段も使うかも知れませんし、嘘もつくかも知れません。恥まみれになることもしばしばでしょうが、清廉潔白というのは何に対してそうなのかに因ります。私は誠を以て正しいと思ったことをするように努力しています。これは例え間違ってもある程度は修正が効きます。至誠あるときのみ、忍びの術は天に通じると思っています。

卑怯なことや恥や嘘まみれになって生き延びて何になるんだ、と思うかも知れませんが、不思議と武芸を通じてそれをすると汚い生き方を避けるようになるものです(少なくとも私の場合)。個人的には侍の生き方も忍者の生き方も違う道を辿って上る山のようなものではないかと思っています。険しくないけど遠回り、険しいけど近道、そんな具合で。

忍術は「消える」と言います。それはどろんと消えるという意味ではなく、自分を勘定に入れない事を指します。何かをする場合、何か事を起こす場合、自分の都合を勘定に入れるとスッと消えられなくなる。生き延びるために消える。このディレンマに苦しみましたが、禅を学んでからは光明を得た気がします。今はこれの意味がハッキリと分かります。ちなみに何が何でも生き延びると言いましたが、スッと消えてなくなるという意味は、自分の生命をも意味しています。何が何でも生き延び、しかし自分を勘定せずに事を運ぶ。

例えば今の私は家族のために生き延びねばならないと思います。カッコ良いことを言ってヒーローよろしく死ぬわけにはいきません。かなり格好悪くても、公衆の面前で大恥をかかされても、不名誉を被っても、手足をもがれても生き延びる。こういう生き方は武士道にはありません。私が当流に居留まる理由はほとんどこの一点にあります。その生き延びる術をなるべく賢く、楽にするために稽古をしています。格好良く死ぬことにも魅力を今でも感じますが、それは多分、自分を勘定に入れていたり、自己を消す努力が足りないのでしょう。

当流の道場訓があります。今から123年前、先々代の宗家が作ったものとされています。

一、忍耐は、まず一服の間とぞ知れ

二、人の道は、正義なりと知れ

三、大欲と楽と依怙の心を忘れよ

四、悲しみも恨みも自然の定めと思い、唯不動心の悟りを得べし

五、心常に忠孝の道を離れず、深く文武に志すべし

普通の古流武道の道場訓とはかなり趣が違います。この道場訓は戦闘や武芸、名誉や誇りを維持するためではないことがよく分かると思います。

生き延びて更に世の中に役立ったり、世を愉しむ。そういう在り方です。

当流の先代宗家は隣家の住人はもとより、ほとんどの親戚すら、武芸の達人だったとは知りませんでした。私はどんな稽古をしていたのか興味があるところですが、これを書いた先々代宗家もかなりの人物ではなかったかと思います。

それが縁で世界各国から軍人や警察、警護関係の方が多く来日します。軍人でも特殊部隊の人も結構来ます。特殊部隊の人とは何度も語り合ったことがありますが、やはり当流のようなものの考え方はとても参考になるようでした。

いつもは忍者だとか忍術などという言葉は使わないのですが、今日は少々気分を変えてみたくなりました。

平成二十五年水無月二十四日

不動庵 碧洲齋