不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

導育

私が勝手に作った造語です。

本来educationの訳語としてはこちらの方が正しいはずです。

ラテン語:educatus. e-(外へ)+-duc(導く)+-ate=能力を導き出すようにする。

「導」の原義は一定方向に引いていく、案内する、手引きして教えるの意です。

そう考えると私の造語「導育」の方がeducationに近いと思うのですが。

当流で正式に道場を持てる位を「士導師」と呼びます。

士を導く師でしょうか。

一方の「教」の原義は、子供に対して知識の受け渡しを図ること、その中でも渡す側を指すとのことです。つまり一方通行の教えを意味します。

そのようなことから教育という言葉はあまり好きではありません。

どうもツメコミ式を連想してしまいます。

その昔の教育方法は例えば今の公文式のように、ひたすらさせてみて、その間に何か本人が気付くのは本人の責任の範囲で、という事になっていました。だから昔の指導者達は導きこそすれ、教えたりはしなかったのだと思います。

昔の武道の道場では、新参者はまず下働き。その間に道場稽古を盗み見たり、先輩方の癖を見たり。先生側も新参者の素質を見極めたり。で、道場稽古が許されると、先生が見極めたとおりにびしびしと鍛えられます。手取り足取りではなかったと思います。つまり「導」です。

息子はよく私に質問します。神学的だったり哲学的だったり科学的だったり政治的だったり、色々です。そこでダイレクトに答えることは決してしません。自分ならどうするのか、何故そうなってしまうのか、その問いをあらゆる角度から観察させて、再考させます。その上で調べる方法を教えたり、一緒に調べたり。私も興味があることが多いですから、一緒に調べます。

本人の知っている知識から推論を組立てたり、本人のセンスを最大限に生かした哲学の答えを導き出したり。真理については正解はありませんから、地球の裏側、数百年前にまで遡ってその道理は正しいのかどうか、真理に近いのかどうかを考えさせます。

どんなに忙しくても、無碍に断ったりはしないように心掛けています。全幅の信頼を置いて尋ねている相手を軽んじることはやはり頂けません。これは武道でも自宅でも同じ事です。私に対して害意がある者にすら(苦笑)、誠心誠意、できるだけベターな返答を心掛けるようにしています。

今の時代はインターネットのおかげで恐ろしく簡単に答えが出てしまいますが、息子には安易にネットの情報を信じたり、実体験をショートカットして答えを導き出して欲しくないと考えています。それ故に教え込むよりも方法論や解決論について導いてあげたいと思っています。

子供の問いに対して無碍にしてはならないのはもちろんのこと、安易に正解を与える行為も、親や教育者としてよくよく考えたいものです。

平成二十五年水無月二十一日

不動庵 碧洲齋