不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祈り

多分、一神教の方が調査したのだと思いますが、それによると日本人の大半が無宗教なのだそうです。 日本にもたくさん、お寺や神社に詣でている人たちは習慣でやっているので、信じているのとは違う、ということのようです。 自分の物差しに合わなければ無神論者というのが一神教なら、違う物差しもあろうというのが多神教の強みかと。 鎌倉では人々の熱心な祈りをたくさん見る事ができました。 チャラいにいちゃんが、他の人よりもずっと真剣に祈っていました。 ブランドものばかり持ったセレブも、何か呟きながら祈っていました。 キャピキャピの少女達も恐ろしくまじめでした。 鶴ヶ岡八幡神宮では、私の目の前の若い女性は泣きそうな表情で思いの外、長い事真剣に祈っていました。
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その昔、イエスキリストが神殿で祈りを捧げている人たちを眺めていた理由が分かる気がします。 長谷寺では無数の奉納された石仏があり、経蔵の中の輪蔵を絶え間なく人々が回していました。 その輪蔵の取っ手部分は人の手油で黒い光沢を放っていたほど。
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身代わり菩薩?は触られた部分は美しい光沢を放っていて、弁天窟にはろうそくが数多く灯されていました。 本尊の観音菩薩の前では皆、厳かに祈っていました。 それが日本の宗教なのだと思います。 そもそも宗教の優劣を競っても意味がない。 バチカン比叡山を比べて意味がないのと同じです。 現実に私は、例えば基督教からいくつもの教えを実践しようと努力しています。 真理は真理です。宗教は方便です。
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祈りの尊さを知る事、そしてできるだけその祈りを履行する努力をする事。 個人的にはその履行する行為そのものが尊いと、私は思います。 もしかしたら人の品格はそういうものから創り出されるのかなとも思ったりします。 その人の行為からその人の祈りを知ったとき、周りの人は敬意を持つのかも知れません。 イエスキリストは「祈りを見られないように」と言いましたが、もしかするとそれを言いたかったのかも知れません。 鎌倉では多くの祈りを見る事ができ、心が洗われました。 平成二十五年皐月十九日 不動庵 碧洲齋