不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

至道無難禅師のこと

心より外に入るべき山もなし知らぬ所をかくれがにして

無しと言えばあるに迷える心かなそれをそのままそれと知らねば

色好む心にかえて思えただ見るものは誰ぞ聞くものは誰ぞ

生きながら死人となりてなり果てて思いのままにするわざぞよき

いつまでも我が物とせん世の中は昨日に今日はかわる習いを

捨て所なきを心のしるべにてその品品に任せぬるかな

月も月花も昔の花ながら見る者の物になりにけるかな

道といふ言葉にまよふ事なかれ、朝夕おのがなすわざとしれ

色このむ心にかえて思えただ、見る物は誰ぞ聞く物は誰ぞ

何もなき心を常にまもる人は、身のわざわいは消えはつるなり

ころせころせ我身をころせころしはてて、何もなき時人の師となれ

主なくて見聞覚知する人を、いき仏とはこれをいふなり

(至道無難禅師)

至道無難禅師は道鏡慧端の師として知られています。道鏡慧端はかの白隠禅師が若かりし頃、ガツンとかました正受庵の正受老人で知られています。この至道無難禅師、非常に多くの詩句を残していますが、現代にあってもとても分かりやすいものが多いのが特徴です。

私も白隠禅師について調べている内に、白隠禅師の師、そしてその師に興味を覚えました。

無難禅師はかの関ヶ原の生まれで、1603年、関ヶ原の戦いが終わった3年後に生まれています。そして妙心寺の管長も勤められた愚堂国師という方が旅の途中、偶然、無難老師の家に泊まりました。そこで無難老師は愚堂国師の弟子にしてもらい、以後愚堂国師が江戸などに行く途中には必ず無難老師の家に泊まり彼を指南し、無難老師は在家のまま修行を続け、47歳で愚堂国師の法を嗣ぎ、52歳で出家したという、異色のコースを辿ってきている方です。

その弟子正受老人も最初は藩士として勤めてから出家したことを考えると、白隠禅師は宗教だけの世界で教育を受けたとは言え、俗世もよく知った師から教えを受けられたことは非常に幸運だったと思います。若い頃は真面目一点の白隠禅師がもし宗教界でしか育っていなかった老師辺りから教えを受けていたら、大成しなかったと思います。ちなみに無難禅師も正受老人も寺格を持たぬ庵に住していました。この辺りも非常に好意が持てるところです。

そういう異色の僧侶がしたためた句は、一般人の心にもよく響き、分かりやすいものが多く、21世紀にあっても私たちの心に染みてくるようです。

平成二十五年卯月二十六日

不動庵 碧洲齋