不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

さらさらと 滞らぬが 佛なり

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さらさらと 滞らぬが 佛なり

善きも悪しきも 凝るは鬼なり

一説によると「心」の語源は「ころころ」「こる」から来たのだそうです。カチカチに凝り固まった塊がコロコロするのが心なのだとか。定まらぬ人の心を想えばそうかも知れません。

この句はよく禅で使われる禅林世語集に収められている文句で、師もよく引き合いに出します。

とてもよく誤解されるのですが、禅はなにも「何も感じなくなる」とか、そういう為の修行ではありません。テレビの見過ぎか、妄想のしすぎです。

嬉しいときは嬉しさのど真ん中、怒っているときは怒りのど真ん中、哀しいときは哀しみのど真ん中、楽しいときは楽しさのど真ん中にいることです。

当たり前だと思わないでください。私を含め大半の人、特に大人は「怒りながらそれを制し得ない自分に苛立つ」「哀しみながら『これではいけない』と感じる」「楽しみながら『これでは節制がない』と慌てる」そんな感じではないでしょうか。

子供の時はそれに徹することができても、大人になると感情的な自分を常に観察するもう一人の自分がいます。そして多分、そのギャップを以て苦しみとしている人が多いのではないでしょうか。

心が折れる」「心が傷つく」「心が痛む」これらは主体者を観察しているもう一人の主体者から見た様子です。

先日も「自分を抑える」「我慢してきた」などといい歳をした大人が言っていました。こういう社会ですからある程度は仕方ないのかも知れません。自宅や会社、それ以外でも自己を認証させねばならないことが数多くあります。情報が多い故に好む好まざるに関わらず自他を頻繁に比較させられることもあります。周囲が暖かく、理解があればよいのですが、あいにくと世の中の人の情はどんどんお寒くなってきているのが現状のようです。

もう少し自分を薄めてみると、見えないものが見えてくるような気がします。

実際、私も本格的に禅をするまではかなりエゴが強く、仕事と家庭、武芸と体調全てが一度に悪くなったときは文字通りに心が折れそうでしたが、御仏の導きで(笑)禅を始めることができ、今に至っては折れるべき何ものもなく、切れてしまう堪忍の緒などもないことがよく分かりました。それらはみんな、いると思っている自我があると思っているだけです。自我などないはずだと思うと心が楽になります。怒ってもそれきり。悲しんでもそれきり。

自我は強く意識してよいことなど一つもありません。カリカリ、ガリガリ、コリコリ、ゴリゴリ、キリキリ、ギリギリ、グリグリ。自我が動くときに発する音があるとしたら、私はそんな音がするのではないかと思います。会社でもプライベートでも確かにそういう音を撒き散らしているような人をよく見かけます。そんな音を出していたら確かに折れそうにないものまで折れてしまいそうです。

禅はさらさらと流れている清流を識る事だと師がよく語ります。

そしてそこに自分を置かないこと、その清流に手を突っ込まないことだと強調します。

手を入れるとすぐに水はよどみます。

人間は機械ではないのですから、ガリガリ、ギリギリ音がするのを感じたらやはりどこかが異常です。むしろ水や風になるように心掛けてみてはいかがなものでしょうか。

私はこれで、楽になりました。(笑)

平成二十五年卯月二十五日

不動庵 碧洲齋