不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

茶会

日曜日は妻の誘いで春の茶会に行きました。

数年前に同門の米国人を連れて行ったのですが、それ以来です。

場所はたまたま本社のすぐ近くなので車を本社の駐車場に止められました。

9割が中高年の女性でしたが、中といっても50歳以上とか、そんな感じです。

従って40代半ばの私などはかなりの若造の部類で、しかも9歳の息子を連れているために大いに目立ちました。

息子はイヤイヤでしたが、車中、何故行った方がよいのか、諭しました。

将来、宇宙飛行士になるにしても、外国で働くにしても、その時外国人から聞かれることは、その時にいる場所のことではなく、自分が生まれた国のこと。機関銃のようにうまい英語を話しても、そもそも日本のことを知らなかったら日本人として決して外国人からの敬意を勝ち取れない。そして知識だけでは深みのある日本人にはなれない。今は分からなくても、遠い将来、必ず分かるときが来る。自分も日本人としてもっと色々日本の文化を体験して深みを増し、歳と共に恥ずかしくない日本人になりたい、と言って聞かせました。

そういうと、息子はなるほどというように納得してくれたようです。

まあ、他には、こういうことで親に孝行しておけば、後で色々恃みやすくなる、と処世術も併せて教えましたが(苦笑)。

親だからとて、ゴリ押しで親の好みを押しつけるのは頂けません。何故、どうしてそれが必要なのか、ちゃんと説明し、しかもそれは明日明後日、2年3年先のことではない、もっと視野の長く広い目で示す必要があります。

知り合いの中には、「親切」という免罪符を掲げて、自分の好みをゴリ押しする向きもありますが、本人は全く気付いてなくても周囲からはそれが赤裸々に見えています。気に入らないから言う、という狼に「親切」の毛皮をいくら重ねても意味がありません。

相手のため、というのは正直難しい。自分は相手ではないので。最低でも「自分を離れて」考えれば、多少なりとも相手の身になりやすいのではないかと思う次第。歯を食いしばって自分にしがみついたり、当てのない「相手の身になる」よりはまずは一旦、自分から離れましょう。

茶道の先生というと大抵は年配と想像しがちですが、妻の先生は妻よりいくつか年下で、しかも目が覚めるような美人です。

茶道だけではありませんが、シンプルな作法の時ほどその人の所作が見えます。

武芸をしていれば特に、その人の一挙手一投足である程度の性格やバックグラウンドが見えてくるものです。

妻の同門に20歳になったばかりのお嬢さんがいらっしゃいましたが、本当にかわいらしかった。

しかし歩き方や居ずまい、一動作に至るまで、若いのになかなか大したものでした。

同門の方の中にもなるほどと思う方もちらほら。

こういう動きは焼き付け刃では決してできません。

日頃の修練がものを言うのです。

お手前を見せていた門下の人だけではなく、来客のご婦人方にも言えます。

気品が着物を着ているような方もいましたし、着物で気品を上げようと努力されていた方もいたようです。

参加したお点前は流礼という椅子に座ってするお手前でしたが、妻がそのお点前をしました。

3年少々だったと思いますが、初めからここまでよくできたと思います。

年配者が多い中で堂々とやるにはそれなりの自信が必要かと思います。

努力家という意味では私よりは間違いなく努力をします。

妻が行った裏千家の他にも表千家江戸千家がありましたが、あいにく体調が思わしくなく、弁当を頂いて帰路につきました。

息子もほっとしたようですが、とりあえずは行ってよかったという事のようでした。

平成二十五年弥生二十八日

不動庵 碧洲齋