過日、息子が帰宅途中に路上で倒れていた老人を助けたところ、無事に救護されて事なきを得ました。
その老人は近所では有数の資産家で、息子の機転の利いた助けにいたく感じ入り、一千万円を贈られました。
しかし息子は「僕は今、幸せなのでお金はいりません。お父さんが同じ事をしてももらわないと思います。」と言って辞退しました。
あ、これはフィクションです(笑)。
昨日、図書館に本を返しに行く途中、息子に質問してみました。
「帰宅途中にお金持ちの老人を助けたところ、とても感謝してお前に一千万円をあげると言ってきた。そのお金はもらうべきかもらわぬべきか。」
息子はさらりと
「パパだったらもらわないよなぁ。だから俺ももらわない。」
嬉しい事を言ってくれるな。本来はその答えで十分と言いたいところなのですが・・・
「自分の答えを持たねばイカン。」
「そういう事で人からお金をもらっちゃいけないんだよ。」
「なんで?いいことをしたのに?」
「誰もいくらって決められないじゃん。」
「そうだな。世の中には価値が決められる事とプライスレスな事がある。これを知らずに何にでも値段を付けたり価値を決めようとする人間は卑しい人間になる。それを知っている人間はずっと素晴らしい人間であり続けられる。たとえば・・・1億円あげるからK君と友達をやめろ、って言われたら、そうするか?」
「できない」
「10億円だったら?」
「いくらあげると言われてもできない、お金じゃないから。」
「そうだ、それがプライスレスの場合さ。人間はバカだからどうしても数字に置き換えたくなるけど、なるべくそれをしない人は割と立派な人が多いのかも知れないな。」
「一千万円をもらわない理由は、『僕は今、幸せなのでお金はいりません』って言うと思う。」
「へぇ、じゃあ何がどう『幸せ』なんだ?」
「ん~なんだろ。」
「うちはゲーム機は買ってやらないし、ペットもハムスターまでだし、ごはんもゴージャスじゃないし。」
「ゲーム機じゃ幸せにならないでしょう、普通」息子が苦笑。
「じゃあ何が幸せなんだ?」
「毎日友達に会えて遊べて、家にお父さんとお母さんがいて、ごはんが食べられること。」
この返事にはなかなか感銘を受けました。
「お前、偉いな。幸せな人って、いつも何かに感謝している人だ。不幸な人はいつも何かに不満を持っている人だ。同じものに対して幸せな人と不幸な人ができる。心の問題だよな。」
「ごはんを食べられないで死ぬ人もいるんだから、食べて文句を言う人は最低でしょう。」と、普通に返してきました。
「そういう考え方ができない人が大勢いるから、世の中がうまく回らないんだよなぁ。」
・・・と、私はもっと意地悪な質問をしてみました。
「じゃあ、ママが病気で手術に一千万円が必要だった場合はどうだ?」
「ん~その場合はもらうかな。」
「困ったことにお前の親友K君も病気で手術に一千万円必要。その場合、お金はもらうにしてもどっちのために使う?」
「うわぁ~困ったな。どうしよう。」
「どうせ正解はないんだから、お前なりの考えを教えてくれ。」
「そうだなぁ~、やっぱり友達のために使う。もしパパだったらそのお金を友達のために使いなさいって言うから。」
(い、いや、ママが同じ事を言うかどうか分かりませんが・・・)
「よく言った。そうだな、パパだったら人を押しのけてまで生きたいと思わないし、お前の友人の方を生かしたいと思う。誰かのおかげで生きているなら誰かのために死ぬのもまた良いことだろう。」
「そうだよね。自分のことを考えるとうまく考えられなくなるんだよね。」
「そういうことだ。自分を勘定に入れない生き方が、いちばんいい。」
こういう設問には正解はありません。
どれが正しいというものはなく、何故そうしたかという道理だけに正しいかどうかと言うものがあります。
今回、なにげに息子に質問してみましたが、なかなか優れた回答だったと感心しています。
自分のお子さんにも時々、正解のない質問をしてみてください。
そしてできたら一緒に悩んでみてください。
子供のものの考え方がとてもよく分かります。
平成二十五年弥生二十九日
不動庵 碧洲齋