不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

なんでジイジは死んじゃったの?

昨夜、たまたまパソコンのデータを見ていたら、父の最後の姿が映った動画がありました。これは他界する8ヶ月ぐらい前のものでしたが、妻の海外赴任に伴って息子もサイパンに行っていたので、ビデオメールとして撮影したものでした。

デジタルデータのすごいところは既に死んでしまった人の姿を完璧にコピーし、しかもほぼ半永久的に残ること。良いのか悪いのか。

ビデオではこれも既に死んでしまった愛犬を抱きながらソファに座っている父が、息子に多少ぎこちなく語りかけているものですが、本当に短いものです。並んで私も座っていましたが、私はその時どんなことを想っていたのか。

父の死は今でも悔やまれます。坐禅をするときに今でも儀式のように最初の取り払う想念です。一旦取り払うとすでにそれは持ち上がってきませんが、日常では時々ふと思い出します。

もっと親孝行できなかったのか。なんでもっと健康に気を配ってやれなかったのか。今生きていれば、等々。仕方のないことを幾度も幾度もとりとめもなく。

他界する前に今一度だけ、息子に会わせてやりたかった。これは多分、死ぬまで残るでしょう。

こういう気持ちは誰かと共有できるものではないと思います。無論、多くの友人達が気持ちを酌んで頂いたからこそ今の私がいます。これは本当にありがたいことです。今でも感謝の念は尽きません。

当時は仕事もうまく行かず、武門でもトラブっており、その上妻子がおらず、本当に気が触れる少し手前だった気がします。(正常な判断をしていない、という自覚は不思議にありました)

妻子が帰国してからはよく息子がよく尋ねてきました。

「なんでジイジは死んじゃったの?」

折ある事に息子が私に尋ねてきます。

サイパンに行っている間に祖父が死んだことをなかなか理解しません。

わずか3歳の子供には理解できないと思います。

もしかするとこれが最初の公案だったのかも知れません。

1日何度も問われると、気が変になってくることもありました。

しかし決して息子に当たり散らそうとは思わず、自責の念も相俟ってがっしりと受け止め、真剣に向き合いました。

何度答えても息子は聞き返してきました。

どんな答えでも納得しません。

それどころか自分すら納得できません。

自然、坐禅に打ち込むことが多くなりました。

息子とよく、仏の教え、宗教、人やものの道理について語り合いました。

もし息子が他の子供と多少違うところがあるとすれば、人や生き物は何故生きて、何故死ぬのか、徹底的に語り合ったところかも知れません。3歳からまもなく9歳になります。

今でも時々、仏の真理や禅の考えについてよく話します。そして大切なことがある度に仏壇の前に一緒に座ります。

「なんでジイジは死んじゃったの?」

そこに届かずとも、あのときよりもぐっと答えまでの距離が縮まったように感じます。

それで十分です。真理までの距離が遠くならなければよいのです。

私にとって息子はただの子供ではなく、ある意味最初の禅友だったかもしれません。

昨夜はその後に勉強しましたが、その内にうとうとしてしまい、寝ぼけながらちゃんと明かりを消して寝たのでしょう。朝、いつもより早い4時に起きて坐りました。

坐りはじめは日曜日に聴いた無門関第四十五則・他是阿誰について淡く想っていましたが、いつもより深く坐れました。

1柱のつもりでしたが沈香が消えても気付かず、1時間は坐っていたと思います。

家の真上でカラスが「カー」と啼きました。

悟ったなどというのはおこがましいですが、その刹那、カラスの鳴き声、朝の気配、周囲の音、私の内側と外側に躍動する仏をほんの一瞬、リアルに感じたような気がしました。そして躍動する仏には死んだ父も母も愛犬も祖父母達もいたような気がします。どこかに行ったのではなく、どこからか来たのでもなく、あるといえばなし、なしといえばある、ともあれ仏というのか何なのか分かりませんが、神々しい充ち満ちた躍動感に包まれました。

その後、パソコンでメールを開くと偶然、禅の師匠からメールがありました。

「十方三世一切の諸仏 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜

提唱で話されていた、礼拝時に唱える言葉の全文でした。日曜日の夜に全文を教えてくださいとお願いしたものでした。これは仏事の礼拝時に唱える言葉です。

訳すと簡単な言葉ですが、それは今まさに私が感じたものと同じでした。

毛穴で聴く、毛穴で理解すると言いますが、今朝は本当にそんな気がしました。

「宇宙一杯に満ち溢れる仏よ、それを体現すべく修行に励む尊き者たちよ、偉大なる仏の智慧よ。」

*訳は私の勝手流です。

偶然、今朝届いたものですが、朝から稲妻に打たれた気分でした。

確かに仏はいる。良きも悪きも超えたところにいる。

師もよく「あるようでない、ないようである。ありながらなく、ないながらある。」と仏の様を語りますが、少し分かった気がしました。

それにしても師とはかくもありがたいものか。

これからもますます、修行に励みたいと思います。

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写真は今年咲いた会社近くの桜

平成二十四年長月十一日

不動庵 碧洲齋