不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ありのままに、そのままに

我が社に一人の社員がいます。

いわゆる元ヤンで、私より一つ下なのですが未だに言葉の端々にヤンキーチックなカラーを色濃くにじませています。

族では先輩後輩というのがキビシかったらしく、入社が後と言うことで、社内で唯一、社長以外で私を「君」付けで呼んでいます(苦笑)。

無論、他の社員との摩擦もダントツで多いようです。

さすがに暴力沙汰はありませんが、言葉の浴びせようなどはまさにヤンキーそのもの。妻がいて一児の父の言葉とは到底思えません。

入社時の最初の1週間で10人以上から「アイツは気をつけた方がいいぞ」と、親切にもアドバイスを頂きました。

そして早速、最初の1年で3回ぐらい難癖やケチや因縁を付けられました。

具合の悪いことに私は本物の海外の軍人や警察官たちを相手に稽古しているので、そういうヤンキーさん達の脅し文句とかは基本的に全く通用しません。そよ風みたいなものです。本当に怖いと感じられないのですから仕方ありません。顔色一つ変えない私を見て、更に火に油を注いでしまったことしばしば。私のせいではありませんが。

悪いことばかり書いてますが、彼に対してこれは極めて優れているなと思う点。

基本的に家庭優先のようです。子供さんの催し物の為には平日にも有休を取りますし、休日には新しく買った家をよく掃除したり修繕したりしているようです。

人間関係やコミュニケーション能力にはいささか問題がありますが、仕事そのものは非常によくできるように思います。私の目からすれば、コミュニケーション能力が普通だったら、一流企業でも通用しそうなぐらいです。

その二つとも私よりも優れているように思います。基本、私は自分のライフワークを優先させる傾向がありますし、仕事に関しては如何に楽に手抜きでうまくできるかということを念頭に合理化を図っています(笑)。

まあ、それでも社内での評判は思わしくなさそうです。

もうちょっと対人関係に慎重且つ丁寧であれば、もっとよい会社に勤められるか(彼は自動車通勤で1時間半)、よいポジションに上がれるのにと思います。

少し前に聞いた事です。

実は彼は小さい頃に(いつか知りませんが)お母さんを亡くしているそうです。離婚なのか分かりません。だから小さい頃から母親の愛情を知らずに育っていると言うことになります。決して差別的な発言ではありませんが、今まで知り合った方の中で、小さい頃を片親で育った方はやはりどこか、尋常でないところ、バランスに欠けたところを持っている方が多かったように思います。全員でないにしろ、多くの割合で、と言うことです。

そういう話を聞くと「ああ、母親を亡くしてしまったのだから仕方ないよな・・・」と思う訳です。社会人としてあるまじきコミュニケーション能力の拙さをせめようと思わなくなる訳です。

ちなみに私は彼とは控えめに、しかし礼儀正しく接しています。恫喝とか全く効果がないと感じてきたのか、最近は少し態度が変わってきたようにも思います。

ここまでが前置き。

その人は全く変わっていません。私の視点がコロコロ変わっているだけです。その人の有り様はそのままです。ヤンキーチックな態度は許せん、家庭人だから許せる、コミュニケーション能力の低さは大問題、仕事はできるから問題ない、幼稚な暴言を吐くのはゆゆしき事態、幼い頃の家庭を思えば仕方なし。本人は変わっていないのに、周囲が変わっているだけです。知っている情報だけで人を判断します。

武芸ではまず、初心者は先輩などの動きを繰り返し真似て、習得します。

そのうち動きの理合いが分かってくると、応用が利かせられるようになります。

更に進むと、相手の固定観念、先入観、癖などの間隙を縫って攻められるようになります。

そして多くの人は、相手が予想しているだろう次の動きの裏を掻けるかどうかに注目します。予想外を予想できる精度を高め、如何にして相手の裏をかけるか、そこが重要なポイントになってきます。

私も長年やっていますから、ほとんど外さない確率でそれは当りますが、元来小心者の私は0コンマ001以下であっても存在する「外れる確率」をいつも恐れています。精度を高めるための稽古、基本的にこれは絶対に不可欠です。しかし99.999%と100%の間には巨大な間隙があると言ってよいでしょう。昔の果し合い、戦いではそれを飛び越えられなかった人が敗れたのだと思います。

どんなに稽古をしても精度が高まりこそすれ、ゼロに持って行くのは不可能だと思いました。(私は汗水流す努力があまり好きではない、横着者なので)相手の予想の裏の裏の裏を掻く様は終わりがありません。危険性だけが上がります。

たまたま私は禅を10年ちょっとやっています。何度もブログで言ってますが、基本的に武芸と禅を組み合わせる試みはとても嫌いです。ただし、やはりどうしても古来から侍の中には禅を嗜んだ者が多いという事実はあり、無関係とはいかないのが現状です。

禅の考え方は割愛します。

相対したとき、相手は裏の裏の裏を掻こうとして構えています。しかし自分はそのまま、ありのままでぶつかります。拍子を違えてしまう、思惑を外してしまう、思い違いをしてしまうのは相手です。

もしかすると、こんな効果を狙った人もいたのではないかと思います。

私は最近、無念無想無心で稽古をするように心掛けていますが、受け、捕り、共に無念無想無心で行った場合は非常に効果が高いように感じています。これはなかなか難しい方便ですが、対峙している人は大抵、その人の頭の中で勝手に組立てた相手も考えているだろう思惑、妄想、予定調和で動いています。だから無念無想無心が来た場合は明らかに拍子や間合いがわずかにずれたり戸惑ったりすることが多く感じます。

考えながら考えず、無想ながら計算する、あるいはそういう相対的視点を外して動く。その辺りはかなり今の私の核心に近い考えですが、確信的なものがあります。

大体、この浮き世はあまりに多くの人の、どうしようもない思惑で動いていることが多すぎるような気がします。例えで言うなら電子メール、世の中の電子メールの内、9割以上はジャンクメールだそうな。公共のネットワークシステムを介して9割方がジャンクであるメールのために使われています。現実の世の中も実はそうではないかと勘ぐってしまいます。

誠実に、とか、誠意を持って、というのは全く陳腐な言い方ですが、ある意味宗教的な真摯さを以て事に当ることは、世の思惑を打破すると言うものなのかも知れません。

だから武芸でもダマし合いでギリギリの処を狙う人もいれば、私のように別の視点で追い求める人もいます。他の方法がある人もいるかも知れません。どの方法であれ、本当の相手、いかなる自分のフィルターを介していない相手、ありのまま、そのままの人を本当に見ることができたのなら、武芸者としては最強、社会人としては誠実に生きていけるような気がします。

平成二十四年長月十二日

不動庵 碧洲齋