不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

事実ではないが真実を語っている

確か聖書について、遠藤周作が著書「イエスの死」で語った言葉だったと記憶しています。

これはなかなか言い得て妙なコメントだと感心しました。

どこの宗教でも事実だけを語り、布教することはまず不可能でしょう。

何故なら個人の精神的体験はある意味絶対主観的で個人にのみ帰するものであり、それを他に伝えるとしたらそれはほんの副次効果のカケラのまたカケラに過ぎないからです。

他人の宗教体験に依って自分もその僥倖にありつこうなどと言うのは都合のいい話で、やはり自分の実践あってのことだと思います。

何かの仏教入門に書いてありましたが、仏教には色々な宗派があるが、その理由は高い山を登るにしても、多くの登山ルートがあるのと同じだから、というありふれた理由がありますが、そういうものだと思っています。

同門にも「ただ座っているだけで何が分かるんだ」という人もいますし、私のように禅に打ち込んでいる人もいます。知り合いには天台真言系も法華系も浄土系も創価学会系も立正校正会系もいます。確かに色々な方法で仏陀の宗教体験の追体験を通じて何かを得て、社会にフィードバックしています。なにせ2500年も前の人の追体験ですから、そもそも正しく伝わっている部分の方が少ないと思うのですが、言い過ぎでしょうか。

言っては何ですが、同時代に書かれた中国の「孫子」の方がよほど正確に後世伝わっています。その点昔の中国人(現代中国人を含めず)は記録マニアです。

孫子にしても本来は軍事科学の教科書であったはずですが、21世紀に至ってはビジネスマン指南書としても大変重宝されています。孫武には「使い方が間違っておる!」なんて叱られるでしょうか。

言葉は非常に限られます。

その上、我々の先入観、固定観念、偏向されゆがめられた情報、錯覚、これらをくぐり抜けてきた情報を元に私たちの知識は成り立っていることがほとんどです。それらを不完全この上ない言語で綴っているのですからよく考えたら目も当てられません。

せいぜい科学の分野でややマシといった程度。

それだってたった500年前に地球が回っているなんて言ったら捕まったし、猿から進化説はいつでしたっけ?

だから事実が常に真実を語っているとは思えませんし、真実の残滓を以て事実の全てだとも思えません。私たちはそもそも事実の全てを受容できる程にも賢くないと思うのです。

例えば何々流の開祖はこんな人でこんなスゴい人だった、冷静に考えたら多分、これはずっと後になって書かれたことに違いありません(笑)。

それじゃあ巻物の中身だって、時代時代で再編纂、再編集、整理整頓、失伝、追加、改良、色々あって然りです。ない訳ありません。フランスの諺にもありますが、意見が変わらないのはバカと死人だけだそうです。

では全部嘘なのかと言えば断固として違うと言います。

その流派で稽古されている体系は間違いなく、いつかどこかで始めた武芸に秀でた誰かの流れを汲んでいます。そしてそれは時代と共に変化しています。変化できなかった、変化しなかった、オモシロクなかった流派は残念ながら廃流の憂き目に遭っているはずです。単純に伝わらなかったから伝わっていないのです。恐竜やネアンデルタール人が今いないのとほとんど同じ理由です。

だから今している稽古は多分、時を通じて途切れていない、連続している真実なのです。

廃流になった武芸を復興する人がいます。個人的には一度なくなった流派は再興できません。ちょっとカッコ良いことを言うなら芸としてのDNAが既に失われてしまっている、命が消え去っているからです。まあでも全く別物として1本の伝書、1冊の本から辿るのもいいでしょう。(復興している人が宗家だとか何だとか言わない限りは!)

開祖から一度断絶したことがある流派もあるかも知れません。しかし再興してから今に続いているのであればやはり、それは魅力があり世に生存する程には優れた流派であると思います。

多分、古流の(いや、古流でなくとも)門下生達が汗水流して一生懸命に稽古していることは、そのいつかどこかで始めた芸達者だった人と昔、それを実際に使っていた人たちの命の息吹とかDNAとか、そういう類のものを感じたいが為だと思います。感じたから何なんだ!と言うなら、禅で悟ったから何なのだ!(師匠スミマセン)というのと同じではないかと思います。別に知らなくても問題ありませんが、知りたいからやっているだけです。そして社会に還元して、幾ばくかよい効果をもたらしています(多分)。師も「楽しむ」とよく言いますが、辛い思いをしてまで稽古するのも楽しんでいるから。何か深遠な真理を追い求めている楽しみがあるからだと思います。そうでなかったら万事横着な私が長年続く訳がありません。

山のルートに戻ります。

時代によって登山ルートは変わるでしょう。

氷河期、原始時代、戦国時代、平和な時代、高齢者の時代、多分登山ルートは違ってくるはずです。違って然りです。でも山頂があることが分かっていて、それを登ってたどり着こうと決めた以上はどれかのルートを使います。どれがよくてどれが悪いルートなんて、本当の登山ではないのですから登っている本人にしか分かるはずがありません。ガチで武芸に命を賭けている人からすれば、私の生き様なんて回し蹴りモノでしょうし、誠心誠意、家族のために生きているお父さんからしても、私の生き方なんてエゴロジー丸出しです。だから自分にしか分からないんです。

だから、禅のみならず、よく言われるように「今この瞬間を一生懸命に生きる」に尽きるのではないかと思います。隣のルートを観察して、あーだこーだ言う余裕のある人ほど危うかったり、真剣味がないように思います。

何でこんな事を書いたのかと言えば、私が参加しているSNSのあるページで、多分法華経系の方でしょうか、禅宗仏教を徹底的に批判し、邪宗とまで言い張るのを見て、いささか思ったのでした。鎌倉時代に生まれていれば、日蓮さんのよい弟子になっていたかも知れませんが、今その主張をするのは自分の服に火が付いているのに、他人の火を心配するような構図です。また、武道に携わっている人にも何々流に拘泥している人を時折見かけるので、少々思った次第。

流れを外から見るより、流れになりきる努力が修行としてはより重要。禅の師がよく言う言葉ですが、私もそうだと思います。

平成二十四年長月六日

不動庵 碧洲齋