不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

黙して語ること

友人の方々はよく存じている方が多いのですが、私が所属する流派は外国人門下生が非常に多い。非常に多いというのは、世界的に見れば多分、9割方は外国人ではなかろうかと思います。

日本の道場でも外国人の方が多い所はざらにあります。

従って道場内のしきたりというか、一般常識が日本の普通の武道道場とは良くも悪くもかなりかけ離れていることがあります。

遠い国からお金を掛けてくるのだからよいだろうと容認したり、そうでなかったり。

マナーやエチケットに関してはそんなにうるさくはない当流ですが、門下生の中にはやはり不満に思っていたり、外国人門下生にももっとちゃんと知りたいという方も多々あり。

そういうこともあり、最近になってフェイスブックなどで少しずつ日本のマナーや常識などを紹介してきています。

外国人には例えば誇らしげに自分の段位や門下生数、道場の広さを誇示する人もいますが、これは一概に悪意があってやっている訳でもなく、これが彼らの文化なのです。

昇段にしても日本人からしてみれば自薦で厚かましいと思っていても、彼らの国ではそう大きく外れたことでもないのです。

だから杓子定規に悪いというレッテルを貼らず、何故日本ではそうしないのか、ここは文化の相違を踏まえて忍耐強く例を交えて話します。最近になって、こういうやり取りはおもしろいと感じるようにもなりました。寛容になったのか、丸くなったのか。

日本人はやはり世界的に見ればかなりシャイな民族であることは疑いないようです。

割に極端な例ではないのですが、日本人の場合、中高6年間、英語を学んできて、ごく簡単な英文が読めても「英語はできません」と普通は答えます。

ところが海外では、二言三言話せればそれはもう「話せる」と豪語する人を多く見かけます(苦笑)。

逆に言えば、そういう感性の持ち主からすると、日本人は見えないところに莫大な知恵を蓄えておきながら、何食わぬ涼しい顔をしている不気味な連中と思われていることも多々あります。まあ、世界的に日本人の民度の高さは定評がありますからそれが信頼に繋がっているのですが・・・。

勝手な意見です。

シャベラー(よくしゃべる人)とモクラー(あまりしゃべらない人)では、日本では未だにモクラーに信を置きます。海外ではよく(うまく)語る人に信が置かれます。「雄弁は銀、沈黙は金」という諺は元々ヨーロッパのものですが、日本では語る価値もない程に当たり前のような気がします。もちろん、欧州でも壮言大言した後に実行できないとダメですけどね。要は「そのうち実行します」という担保で巧言令色が許されている気がします。シャベラーはキリスト教的な「許し」の上に成り立っているのでしょうか。よく分かりません。

日本では薩摩武士に限らず、寡黙な人が好まれます。個人の好みで恐れ入りますが、東郷平八郎元帥などはまさにその代表格ですが、それ以外でも幕末維新に限ってでさえ、結構そういう人が多くいます。私も使命上、日本語や英語でよく書きますし、後進のためによく語ることもしばしば。

自戒せねばならないとは思いますが、例えば一挙一動に至るまで、最近では『このDVDは息子によい影響を与えるだろうか』『この本は息子に説明したらよいだろうか』『こういうことは息子の義心を磨くだろうか』等々、親ばか極まれりですが、とりあえずそのような気持ちで息子を始め後進や同門に接しています。

自分がどうの、自分の主張よりも、より優れた後進を日本の未来のために育成する、ジジ臭くなってきてしまいましたが、本音ではそういう気持ちに傾いてきています。無論、完全に打ち解けている武友、禅友には遠慮なく語らせてもらっています。なので私のシャベラー癖は大目に見てやって下さい。

先日、某SNSのメッセージを整理していたのですが、ある方からの返事が目に止まりました。

曰く「私も空手○段、某格闘技歴○○年○○戦くらい、総合格闘技○年○戦程度のキャリアがございますので、しっかりお相手できると思います。また、仲間にも空手・テコンドーなどの経験者がおりますので・・・以下略」

これ、何の返事だと思いますか?実はたまたま知り合った挨拶ついでに、催し物があるときには当流独自の、ちょっと変わった演武などできます、といった程度のことを書いた返事です。まじまじ読むとまるで暴走族か不良集団のケンカの挑戦状のようで、元来肝っ玉の小さい私は自分は何と書いたのか、慌てて発信内容を確認してしまった次第です(苦笑)。

当人が「格闘技家」を自称しているなら全く構いません。格闘技とは興行で収入を得るため、履歴を誇り、トレーニングメニューや量を誇り、試合当日まで盛り上げ、その興行収入を生業にするのですから、別段恥ずかしいことでも何でもありません。武芸者的格闘技家もいますし、格闘技家的武芸者だっています。これらも特に悪いという訳ではないと思います。私の場合はあくまで武芸者的武芸者を極めようと四苦八苦している訳ですが。

ただこういう輝かしい履歴はできたら胸に秘めて、別の話を持って来た方が風雅ですし誤解を招きません。10代20代ならともかく、孔子曰く「三十にして立つ」とありますから、三十過ぎての自慢話は決してカッコ良いものではありません。全然しないのもつまらないと思いますが、要はそのさじ加減が分かり、空気が読めることが肝要かと思います。スマートなシャベラーでありたいなら、空気が読めてTPOをわきまえたいところではあります。自慢話をしてもスマートでカッコイイ人がいたら、その人は相当な人物のはずです。

武芸者の端くれとしては日頃から慎み、要らぬ言葉で自らを煌びやかに彩らず、墨で淡く自らをそっと描き、気付く人だけ気付く、そんな風でありたいと思っています。

口は朽ち

言の葉落つる

季節(とき)なれば

松の碧さが

映ゆる秋空

画像

自宅の書斎の前にある楓

平成二十四年長月五日

不動庵 碧洲齋