不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

白と黒のペンキ

昨日、たまたま息子とテレビを見ていたのですが、映像でB-29の爆弾投下がありました。

私は息子に、「こんな爆撃機が300-400機も東京にやってきて、爆弾を落として行ったんだ。バアバももう少しで死ぬところだった。」

「じゃあ東京には日本軍の基地がいっぱいあったんだね」

「そうじゃない、日本人の町を焼き払おうとしたんだ。」

息子は驚いたようにしばらく黙り込みました。

「兵隊さん達じゃなくて、普通の人たちを爆撃したの?」

「そうだ、そして戦争に勝つと、今度は日本人を平和を乱した罪とかで、たくさん処刑された」

「・・・」

「世の中は正しいから勝つんじゃない、勝った方が正しいことが多い。だから正しい人は強くしていなければいけないんだよ」

私は正義というのは信じてませんし、正義が勝つなどもっと信じていません。

相手と比べて、紙一重で社会にご迷惑でない、とか、社会に役立っているとかいう視点がほとんど全てではないかと思うのです。

それに自分が正義だと思ったときほど、人は最も残忍で冷酷になります。正しいと確信すると神から権威を与えられたととんだ勘違いをする人が多いものです。

現に世界的な大国なのに未のようにおとなしい我が国ですら、2.3の国は口泡を飛ばしながら罵っているではありませんか。

だから正義なんて神様を含めてありはしないのです。

より正義に近い概念があるとしたら、それはどれだけ他人のお役に立っているか、それだけだと思います。

まあ、若い頃はドラマのヒーローだと勘違いしていてもいいと思いますが、とりあえず人様のためになるのが一番の正義だと思っています。

オレはアイツより正しい、そんな心が沸き上がってきたら要注意。

せっかく紙一重で正しかったことがあっても、全てご破算になります。

選択肢が二つしかない、なんていうのは異常です。

電気のスイッチはシンプルでいいのですが、人生に於いてはそんな手合いの問題など少ないはずです。

本当は事に於いて選択肢が二つしかないのではなく、当事者が二つしかないと勝手に妄想しているだけです。

白と黒のペンキが入ったバケツを左右の手に持って歩き、出会った人やモノに全て白黒ハッキリと塗り分けたいと思いつつも、現実には両の手はふさがっていて、塗れるわけがないのです。だから人は白黒で塗ったと妄想しているだけです。

本質はそのくだらない色が入った両手のバケツを放り出して、出会ったモノに直接触れてみることではないでしょうか。

どうも人は自分個人の選り好みにマーキングすることに夢中になるあまり、本質そのものに触れることを忘れるきらいがあるように思います。

私も禅を行じてからはその白黒のバケツを放り出すように心掛けてはいますが、時折いつの間にか重いバケツを両手にしている感なきにしもあらず。

知り合いの中には自分が嫌いな人間が釈迦やキリストが讃えたら、釈迦やキリストも自分の敵だと豪語した人もいましたが、そういう人は完全に白黒ペンキ症候群でしょうね。

基本的に判断して評価するよりも、それ以前のプロセスを重視したいところです。

平成二十四年皐月三十日

不動庵 碧洲齋