不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

やどかりについて

やどかりは自身の成長に合せて宿り先の貝殻を替えます。

人間でも似たようなことはあると思います。

ま、人間の場合はハードウェアではなくソフトウェアですが。

私が最近痛感することは「人間関係」。

これは古今東西老若男女、秘技奥義を究めようと躍起になっている類ではないでしょうか。

今まで付き合ってきた人間関係がつまらないと感じてきた場合、私は二つの要因があると思います。

一つは歩んでいる道が違ってきた場合。

もう一つはどちらか一方が成長してきた場合。

最初の例は割にハッキリと分かるような気がします。なにせ道そのものを変更するのですから。

二つ目は分かりにくいのではないかと思います。成長しているのは相手なのか自分なのか分かりにくいと思うのです。そしてそのうち双方の齟齬が大きくなっていきます。

広義では道を替えるのも成長の一つかも知れませんね。

私は幅広い交流を持つのがあまり得意ではありません。レンジが狭いのかも知れません。それはそれ、私の器というものです。

そう考えると、論語の最初に出てくる言葉はなかなか奥が深いようにも思います。

「子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」

昔は「ふ~ん」でしたが、この歳でこの句の持つ意味の深さに気付きました。

意味はネットでも出てますから調べてみて下さい。

私なりに理想の先生像があります。孔子のように老人になってもひたすら学ぶことを止めない人は間違いなく先生です。というか、常に先を生きているから先生なんでしょう?門弟に常に背中を見せるのが先生だと思っています。前を見られたら先生は終わりです。

ということで先生の前が見えてしまったら、それは多分やどかりの殻のように住み替え時期になるのではないかと思います。カッコイイ言い方をすれば出藍の誉れでしょうが、先生は生涯に亘って弟子なんかに負けてはならないと思うのです。

最近、あることに関してヤドカリの殻のように住み替え時期かなと思うことがあったので、ふと思いつきで書いた次第です。

平成二十四年弥生二日 不動庵 碧洲齋