土曜日、稽古に行く途中で久しぶりに息子と仏教談義をしました。
「息子よ、人は死んだらどこに行くと思う?」
最初のこの問いに2.30分程話し合った結果・・・
・人は死んでもどこにも行かない。
・生きているときから実はどこにも行っていない。
・生きるとか死ぬとか言うのはどこかから来たり行ったりするものではない。
・いるとかいないというのもあまり関係がない。(本当ではない)
息子は生き物の生死をこんな風に考えているようです。
息子に問われました。
「生き物はなんで生きるの?」
これも色々話し合った結果、このようになりました。
・死ぬために生きる、というのは結果であって、理由ではない。
・生きるために死ぬというのも、輪廻転生を信じる人だけに有効。
・生きることを分かるためには生きてみる、だから生きている。
(生きるために生きる)
・同じように死ぬことを分かるためには死んでみる、だから生き物は死ぬ。
(死ぬために死ぬ)
・死ぬのが怖いというのは錯覚。死は生きている間に「死が怖い」という想念も一緒にごっそり取り去ってしまうから。
・死んだ後の人たちもまた、新たに生きるのが怖いかも知れない。
永遠の無限の中で仏になり、安心(あんじん、と言います)を得たのに、苦労の多い生にまた還るという恐怖たるや、生が死になる恐怖以上ではないかと想像します。しかしそれも錯覚。
師の受け売りですが、森羅万象は全て、海の波のようなものだと話しました。
海が仏、波が生き物や物、仏が何かの弾みでかりそめにそれらを成しているに過ぎない。
だから他人といがみ合ったり、自然を壊したりするのは仏どうしで争うのと同じで空しいこと。
波と波が出会う短い間にそういうことをすることは空しいこと。
仏が彼をしている、仏が災害をしている、そう思えば多少、世のものの見方も変わるような気がします。
世には海で言うなら一瞬の間の波なのに「俺が俺が、私が私が」と自我むき出しにするむなしさが分かろうというものです。
息子はきっと、シッダールタ王子のようにどうしても解けない疑問を胸に大人になっていくと思います。
思春期や大人になってからも考えてくれると思います。
その疑問は息子の心を素晴らしいものにする栄養になると信じています。
【今日のロシア語】
ごめんなー/sorry/извинй(Izvinee)
SD110704