不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

今後の宗教のあり方について思うこと

私は毎朝、欠かさず仏壇に手を合わせて読経を心がけています。

やはり先祖に思いを馳せ、感謝するという気持ちは重要だと感じます。

特に私の場合、30代で両親を立て続けに亡くしたので、その気持ちは強く感じます。

禅宗仏教は修行のための方法としても、昔から多くの人が活用してきたこともありますが、私は先祖に感謝を捧げる方法と併せて、深く帰依しています。

息子にも重要な時には仏壇の前に座らせます。

毎朝、息子にもそうさせる必要はないと考えていますが、毎朝父が読経している声や姿を感じつつ成長していけば、いつかどこかで何かを感じ取ることでしょう。

精神的にひどく参ってきたのか、一頃のように宗教に対して冷淡な意見がにわかに減ってきたように思います。

特に日本人の場合、永らく地球市民無宗教というスタイルがカッコイイと、刷り込まれた教育が長かったせいか、民族、宗教という、ある意味、ルーツの根幹を成す重要な精神を破壊されている人が多く見受けられました。

しかしここにきて、どうにもこうにも行き詰まり、やはり精神的な回帰先、宗教を見直す人が増えてきた、そんな感じがします。

しかしながら、師の言葉を借りれば、現代の僧侶の大半は葬式と霊園経営以外のことに関しては在家といくらも変らない程度になってしまったということでした。

つまり、人々が求めている内面のことについて、恐ろしく無知なのだとか。

だから賢い日本人は堕落した僧侶を介さずに、宗教というものからなにがしかを自分で得て、自分のモノにして内面の苦しみや問題を解くための解決法を編み出すのではないかと言うことです。

残念ながら、ここ数年で幾度か参列した葬儀にて読経を上げていた僧侶を見るに、上記を否定できるような要素はほとんど見あたりません。

全員がひどいというわけではもちろんありませんが、せいぜい葬式仏教プラスアルファ程度なのです。

私が通う寺の住職、老師たちは皆、そんなレベルではありません。

そこいらの町寺の僧侶と比較することすらはばかられてしまうほど、自身に厳しい修行を課しています。

私の求めているレベルが高いのかどうか分かりませんが、これからの僧侶は精神的な救済ができるプラスアルファで葬式ぐらいでないと、これからの世の中の役に立たないような気がします。

実際、現在の日本の葬儀、特に都内では「直葬」なるものが全体の2割以上にもなっているそうです。

直葬」というのは病院から斎場に直行、一切の宗教的儀式を抜くという方法です。

つまり葬式そのものがありません。

言っては何ですが、宗教的儀式を全くしないというのは共産圏ですら、ありえないそうです。

これは人が神や仏を信じなくなってきたのか?

まあそれもあるのでしょうけど、要するに主な原因は人が僧侶を信じなくなってきたと言うことだと言っていました。

むろん、その原因は僧侶たちにあります。

信心がないわけではないのですが、僧侶を介したくないという気持ちの表れでしょう。

もちろん有り体に言えば、支払う代金ほどの価値を、その僧侶たちが執り行う宗教儀式に見いだせないと言うことです。

僧侶の方々には大変失礼ですが、ここ10年で対価以上に価値を感じた忌み事の宗教儀式は1.2度ぐらいでした。

葬式で飯が食えなくなってきたとき、僧侶を簡単に辞めてしまう人はかなりたくさんいるのではないかとのこと。

残念ですが私もそう思います。

特に寺院の2代目、3代目で何も考えていない人、楽をしようと考えている人は、これから先、大変厳しい試練に遭うのではないかと言うことでした。

ただ嬉しいことに、2代目、3代目の僧侶がそのことに気がつき、率先して先進的にインターネットを活発に利用して、現代人の病んだ心に立ち向かってくれている僧侶も多々見かけます。

これは本当に素晴らしいことで、今後は高い志を持つ若い僧侶たちには大きな期待を持ちたいところです。

私は出家ではありませんから、出家の苦労は知りません。

が出家に関することはよく老師たちから聞きます。

そして私のこの意見はあくまで在家である私も常に感じていることでもあります。

これから先、日本仏教が力強く再生して、人々が心の涼を求めてやってくるような大樹になったら、本当に嬉しく思います。

僧侶の方々には随分厳しいことを放言してしまいましたが、私やその周りの偽ざる意見ですので、何卒ご容赦下さい。

SD110713 碧洲齋