私は何でも普遍化しようとするクセがあるのですが、その中にあって絶対に普遍的だと信じている至上の信条があります。
生を受けたものは次世代の個体を生み、生育させるという仕事は、少なくとも地球上に生を受けた生命体であれば例外なく、最重要の使命だということです。
これに係わらない仕事というのは基本、かなりどうでもよいことです。
これは育児という狭義の意味ではありません。
家事にしても趣味にしても、これを子供に見せ何か得るものがあれば、意義あることです。
逆にそういうもので子供を真の社会的な人間として育成させねばならないと思っています。
故に一個体の悦楽のため、興味本位のための行動はやはり本質的なものではないと考えています。
(ただ、子供でなくとも児童、生徒、後継者や門弟を育成するというのも重要な任務ではあります。
私は別段、血の系統にこだわることはありませんので)
息子には幼少の頃から仏の教えについて語ってきました。
丁度3歳になる少し前まで祖父と共に生活していたのですが、妻と一緒にサイパンに赴任した際、本人の不在時に父が急逝しました。
息子には祖父の死というものが何故、どうして起きたのか、しばらく毎日、私や妻に「なんでジイジは死んじゃったの?」と聞き回っていました。
丁度そのころから通い始めた坐禅会の僧侶にも質問する始末。
私も息子に触発され、「死」について一緒に考えるようになりました。
小さかったときは毎日、仏壇に手を合わせ、般若心経を聞かせていました。
また、仏様の教えや自然の営みに思うところがあれば生老病死、何についてでも話し合いました。
今でも重要なことがある時は息子も一緒に仏壇に手を合わせています。
昨日の朝、息子が学校の準備のことで私や妻ともめて、本人は不機嫌なまま学校に行きました。
そして帰宅すると右膝に大きな絆創膏が貼ってあります。
話を聞くと学校でボールにつまずいたようです。
そして本人はこれは「仏様の罰だ」と思ったそうです。
あまり信心深いわけでもない妻も珍しく「神様は与えてそれが分かる人にしか罰を与えない」と、なかなか良いことを言っていました。息子も神妙です。
これはとても重要なことです。
多分こういう道徳観念があるなしでは、大人になってからかなり差が出ると思います。
大人になるにつれて、やむなくいささか道義に外れたこともせざるを得なくなったとき、
胸の痛みを感じてくれれば、親としてはしめたものです。
人として道を守れたら本当に仏のご加護があったと思うでしょう。
親だけの教育ではそのようなことはかなり難しいと考えています。
後で息子が私に尋ねました。
「お不動様はやっぱり朝、俺が悪い子だったから罰を与えたのかな?」
「いいや、お前がもっとよくなるからほんのちょっと直してくれただけさ。
よい子にはちょっとずつ色々な方法で仏様やお不動様が知らせてくれる。
そのお知らせを全く考えない人はそのうちお知らせが届かなくなる。お不動様も忙しいからね」
「じゃあ地獄に行くんだ」(オイオイ直截的だな)
「ん~、仏様が閻魔様にそのお知らせを転送して、本人が死んで閻魔様の前に来たときに地獄に行くとか天国に行くとか決めるんじゃない」
「そうか・・・お知らせを閻魔様に転送されたらよくないんだな・・・」
神妙にうなずきました。
笑ってしまいそうですが、業に対する考えとしては間違っていないと思います。
私は親としては到底、完璧とは思えません。
自分の親や祖父母たちと比べると、まるでお馬鹿なオコチャマです。
それの穴埋めというか、補完材料というか、そのような意味でも宗教教育(我が家では主に仏教ですが)を活用しています。
無神論、無宗教という考えは、日本人的には近未来的で地球人類的で、ある意味スマートでカッコイイものに映りますが、現実にはそういう人はまだまだ少なく、大きな影響を与えていないようです。
さすれば古来からあるものの考え方を最大限に活用することが日本人として一番、道にかなった方法だと思っている次第です。
SD110615 碧洲齋