不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自殺と自意識過多について

自殺者、13年連続で3万人超…政府白書

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/suicide/

この世の中に存在する人間には必ず名前が付いています。

そして

碧洲齋!

はい

こんな風になります。

しかし、よく考えてみて下さい。

1日のうちにあなたがあなたであると意識して何かをすることが、どのくらいあるでしょうか?

何かするたびに「私は碧洲齋だ。私が自分で焼いたステーキを自分の口に入れて自分の歯で自らの意志で咀嚼して味わっているのだ」などと考えるでしょうか。

もちろんそんなことはありません。

程度に差こそあれ、せいぜい「食べる人が食べるものを食べている」そんな状態です。

逆に言うと、日々、自分が自分であると意識しなければならない時間というのは非常に少ないと言えます。

しかしこの情報化社会がきわめて発展した世の中ではそれが難しくなってきました。

インターネットによって、およそ知ることはできない情報はないといっても過言ではないでしょう。

地球の裏側にいる億万長者の詳細を知ることもできます。

海の向こうで絶世の美女をゲットした男を知ってしまいます。

偶然に宝くじで100億円も得た人も出てきます。

王様に表彰された人が紹介されます。

オリンピックで優勝した人が褒め称えられます。

自分より優れた人が現れます。

自分よりカッコイイ男の存在を知ります。

自分より年収の高い人が世界で活躍しています。

自分より恵まれた人が幸せになっています。

自分より、自分より、自分より。

たくさんのことを知るというのは、好む好まずを問わず、自分と比較する機会が増えると言うこと。

思うに人間は自意識をずっと持ち続けられるほど、強くはできてないのだと思います。

いや、そもそも自意識などと言うご大層な妄想を、後生大事にしているのは人間だけです。

動物は妄想しませんから。

多分、動物には生きているという自覚もないかも知れません。

それにあり尽くしているだけ、それになり潰しているだけです。

うちの愛犬はまもなく寿命が尽きようとしていますが、

「俺は死ぬんだろうな・・・」

「死ぬのは嫌だな・・・」

なんて、多分考えていません。

生の反対は死という方程式、相対世界を持っていないためです。

日々をただひたすら生き尽くしているだけです。

だから私も一緒にいる時間は大切にし尽くす、本当にできることはそれだけです。

例えば女優の仲間由紀恵さんはとてもすてきな女性だと思います。

あんな女性がうちのカミさんだったらなぁ・・・などとバラ色の妄想をしたとします(あ、あくまで『例えば』ですよっ!)。

まあ妄想は楽しいのでしょうが、妄想以上にはなりません。

現実的にそれはちょっと難しいと思います。

不幸なことに私はすでに「売約済み」ですし(笑)、芸能人の女性を妻に迎えたら、心労がたたってしまうこと必定。

おのれの不幸を呪ったり、心労に振り回されたり、考えただけでぞっとします。

だから意味がないのです。

今この瞬間だけがリアルで、私に選択権があるのは今この瞬間だけです。

この瞬間を懸命になり尽くす以外には、私には何の選択権もありません。

自分であり潰す、自分であり尽くす、それだけです。

もし、もっと優しい女と結婚していたら・・・

こんな女と結婚しなければよかった・・・

もし、いつも全力で俺を支えてくれる女と結婚していたら・・・

(ま、テーマが偏っていますが、どうか気にせず)

「タラ・レバ・カモ」

こいつらは人間の精神に深い悪影響を与えること間違いありません。

今をあり尽くし、自分になり潰す。

そうしていれば、「タラ・レバ・カモ」はきっと、うまそうな香りを立たせることはなく、妄想想念のないところで本来の自分を知ることができます。

私はまだ体験してませんが、それは、たとえようもないくらいにとても美しく見えるのだそうです。

自分の状況に不平や不満を持つ人は、今をあり潰れていないからです。

他人のことに口撃や揶揄を言う人は、自我という妄想に取り憑かれているからです。

心ない口撃や批評を心に溜めている人も、自我という妄想に取り憑かれています。

都市生活は精神衛生上よろしくないと言われて久しいですが、

情報化社会が隆盛するに至っては、誰もが自分を意識する機会が激増し、

必要以上に自分を認識するに至って自他を比べざるを得ず、

結果、大小、上下、多少、優劣、高低、軽重如きに一喜一憂してしまう始末です。

そうなっては比較対象そのものを消滅させたくなるのが人情です。

多分、日本人の自殺の多さなどはこんな所になるのではないかと、勝手に思っています。

正直に言うと私自身、私事公事趣味、全て八方ふさがりのところにきて厳しい口撃、批判を受け、自殺を考えた時期もありましたが、

この禅的思考形態を持つに至って、こういうこだわりがかなり軽減され、ほとんどなくなったように思います。

残り滓も含めて、さらりと流せるようになれれば、もっと仏心に近いものがあるのだと思います。

世の中の大半の問題(と思っている、自分の問題)は、「自分がいる」という妄想が解ければ、さらりと流せるものが大半です。

あなたが死んでも世の中の有り様は変わりません。

宇宙が変わるわけでもなく、地球が止まるわけでもありません。

苦しいのは生きているからではありません。

自分が存在しているという錯覚のためです。

またそれが何なのか、暗闇で手探りの状態だから余計、恐怖故に命を落とす選択をしてしまうのかも知れません。

自殺をすれば、命の軽重とか、命は大切だとか言うよりも、周囲の多くの方に多大な迷惑がかかります。

自分は楽になるのでしょうが、それだけです。

また、自殺した人に対して世間は高い評価を下しません。

たぶんそれは行楽地でのゴミのポイ捨てのようなものだからです。

ゴミを持って帰るのが面倒だからゴミをポイ、

生きるのが面倒だから命をポイ。

なんか似ていると思いませんか?

故に自殺はあまりお勧めできない手段ではないかと、日々思っています。

画像

SD110610 碧洲齋