不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

アダムとイブは仏のど真ん中にいた

先日、坐禅会の後の茶礼の時、師になにげに質問しました。

「アダムとイブは禁断の実を食べる前までは仏だったのでしょうか」

少し驚かれる方もいると思いますが、別に基督教徒の方々を侮辱しているわけではありません。

私のブログに何度も書いていますが、仏教における最高の智とはいわゆる「無分別智(般若)」です。

現代では「分別のある人」「無分別の人」などと書くと前者が良くて後者が悪いという図式ですが、本来仏教では逆です。

善悪という相対的視点そのものが悪いという意味です。

本来ひとつだったものがある日突然分かれてしまったその時点から、生老病死に始まる、人間だけが背負わねばならない業苦に苛まされるのです。

何故人間だけなのか分かりませんが、そういう意味においては神は人を選んだとも言えるかも知れません。(いや、一番救いようがないから、かも)

その業苦は生まれてから死ぬまで続きますが、逆に言えば生まれる前と死んだ後は文字通り仏に回帰します。

スピリチュアル系の友人の言葉を借りればワンネス(Oneness)ですが、これもなかなかいい言葉のように思います。

聖書によるとアダムとイブはもともと裸だったことを認識していませんでした。

そして禁断の実を食べてしまったことから、彼らの世界が絶対的視点から相対的視点へガラリと変貌してしまいました。

聖書の創世記は非常に興味深い記述です。

神が光を産み出したことや、アダムからイブを創ったことや、あらゆる生き物を分化してゆきます。

しかし注目すべきは、それ自体は相対的視点への移行ではありません。

あくまで人間がそれに気付いてしまったところに端を発するのです。

その辺り、聖書の創世記は仏教の無分別智に非常に良く通じるものがあります。

私は聖書は何度も読んでいますが、禅的視点で読む聖書というのも非常に興味深いところです。

もしかしたらそれがバチカンなどでも禅が修行される所以なのではないかとさえ思います。

つまり、禁断の実を食べる前まではあらゆる分別が存在しない、もしくは認識できない「無分別智」の世界にいたという意味で、仏という意味です。

私は知らなかったのですが、鈴木大拙が同じことを言っていたそうです。不勉強でした。

禁断の実とはどんな実だったのでしょうか。

善悪の知識の木になる実だとされています。

他の動物は食べなかったのに人間だけが蛇の勧めによって食べてしまった喩えに興味があります。

ちなみに英語ではwisdomとかknowledgeとか言われますが、無分別智はそんなものではありません。

適語がないのです。

もしかしたら本来の基督教やユダヤ教イスラム教などにおける智慧というものも同じだったのかも知れません。

私の所属する流派の宗家がいつだったか言っていました。

「進化するより変化しろ。進化は人を賤しくするが、変化は人を豊かにする」

進化とは序列を作ります。

誰かが優れていて誰かが劣っているという状況です。

変化とはそういう視点ではありません。

オンリーワンです。

誰もが誰かを必要としている、

誰かが何かを必要としている、

もしかしたら何かが誰かを必要としている、

そういうこともあるかも知れませんが、変化はそういう意味合いがあると思います。

アダムさんとイブさん、三昧世界から相対的世界にやってきたとき、最初にどんな風に思ったのでしょうか。

神が現われるまで、どんなことを考えていたのでしょうか。

まあそれはそれでエキサイティングな世界が拓けたと思ったのかも知れませんね。

SD110501 碧洲齋