不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

雲水と武芸者 壱

雲水とは特に禅僧を指します。

行雲流水の略で、要するに雲が行くが如く水が流れるが如く、

修行のために全国を行脚するというような意味です。

一所に留まり続けて修行に打ち込む必要性は、

禅においては全くないと言うことを指しています。

むしろ同じところに卦塔(修行僧が一定の寺に止住すること)し続けることの方がよく見られないことすらありました。

ま、これは江戸時代や明治時代の初めの頃までの話です。

今となってはそういうことはまれになりました。

先日の座禅会で、師が修行についてなかなか奥深い見解を示されました。

師の知り合いの雲水の話です。

その雲水は僧堂に赴き、修行に打ち込んでいたらしいのですが、

5年ぐらいして思うところあって他の僧堂に移りました。

そしてやはり4.5年後、他の僧堂に移ったそうです。

その方の名誉のために言っておきますが、彼は非常に真面目な方で、

僧堂でも修行をみっちりと完全に行い、非の打ち所がないほどだったとのことでした。

結局約15年で5カ所前後の僧堂を卦塔したとのこと。

それでも見照(悟ること)できなかったようでした。

僧堂というところは師曰く、刑務所よりもひどいところだそうです。

好んで修行に来る人ですら、厳しすぎて去ってしまう人が多いとか。

また、去って行ってしまう理由の多くは、

厳しいと言うよりは理不尽の多すぎることに我慢ならずに去っていくのだそうです。

僧堂は上下関係が非常に厳しく、先輩に対しては絶対です。

大抵の先輩僧はある程度は親切なのですが、

非常に厳しい場所ですから本性むき出しで、

信じられないほど悪意を以て後輩に当たる人も多いとか。

また、作務自体も非効率この上もありません。

目的は修行のためなのですから効率はどうでも良いのです。

逃亡してしまう修行僧たちはその理不尽さを恨むそうです。

師曰く、理不尽さと自分とを対象化させている間はどうにも我慢ができなくなるそうです。

問題があり、それに向き合う人がいる、その分別が在る限りはだめなのだそうです。

問題と自分とを対象化から外し、スッと一つにさせる。

修行を続けているとそうなるのだそうです。

問題を対象化させない、自分を問題の対局に置かない。

これも修行だと言うことでした。

僧堂を渡り歩くことの善し悪しではなく、本質的な答えだと思いました。

人間はどうしても対する二つの答えのうち、一つを選びたがるものです。

禅においてはその頻繁に行われる二択式公式の弊害を説いていると言っていいかもしれません。

どうにかしようとすること。

これは以前、師が言っていたことですが、

自分の思い通りにならないことは自分のものではないと言うこと。

それをどうにかしようとするのであれば、まず心を静めてみる必要があると思います。

そう考えるなら、自分の身体でも自分の思いとは別に勝手に動いている部位もあるのですから、

「自分の思い通りになる」物事など、微々たるものです。

要するに「自分」という意識自体が錯覚であり、幻想であると言うことでした。

仏、仏性、仏心、もしくは空、無、神、天、色々な呼び方をされていますが、

「それ」が森羅万象を形作っているということで、「それ」は産まれる前と死んだ後に戻るところです。

一方で自分の思い通りになる部位すら、私たちは十全にその機能を正しい方向に全うさせることがどれほどできているものか。

頭の妄想を助長するために心臓を動かしてはいないか?

どうでもよいことに声を荒立てていないか。

人を陥れるために脳に詰め込まれた知識を総動員していないか。

仏のあり方というのは言語や知覚の外側にあるらしいので、一度極めてみたいと思います。

(続く)

SD110426 碧洲齋