(続き)
武芸においても全く同じ事が言えます。
他流を学ぶ人、門下で違う道場を渡り歩く人、同じところにずっといる人、色々です。
何か問題を起こして去っていく人などは恨み辛み口頭やネットに書く人もいたりしていますが、
そういう人ははっきり言って同じところにいてもよそに行ってもきっと、
あるところで進めなくなると思います。
(本人は進んでいると思っている場合が多いようです)
肝要な点はなり尽くすこと、し尽くすこと。
なり潰すこと、し潰すことです。
その流派を縦から横から、上から下から、前から後ろからじっくりと見尽くすことです。
尽くす前に移ったりしては意味がありません。
逆にぬるま湯につかる気分で同じ所に留まっている人にも同じことが言えます。
自分になり潰していないのならそのお気楽温泉から出て、厳寒の雪原を歩むべきでしょう。
私はずっとそのように感じてきましたが、師の言葉で具象化できた思いです。
尽くし尽くした後に他流を学ぶ人を見かけます。
私などははっきり言って不器用なので、一所でずっとやる方が向いています。
他流を学ぶにしても、放擲したり諦めて他流に移る人も多くいます。
そういう人ほど自分の正当性を強調します。
そうでない人ほど他流移籍について正当性を強調しないように感じます。
今まで複数流派を学んだ人と接してきてそう感じます。
たくさん知ることではなく、よく知ること。
武芸ではたぶん、この辺りは非常に重要です。
なまくらな技ではだめなのです。
尽くすこととはたぶん「一芸は万芸に通ず」とも言えるかも知れません。
これは私が信じている数少ない真理の一つです。
多芸は足芸、事足りる程度の芸になりかねません。
それは一芸がいいという意味ではなく、尽くし尽くしたのかどうかということで峻別されます。
繰り返しますが、必ずしもたくさん知ることイコールよく知ることたり得ないと言うことです。
そういう意味では本当の達人とは一芸でも複数芸でもなり尽くして、
その先にある真理とかいうものを知ることができる人なのだろうと思います。
ネット上でも「この人はすごい」と思う方も何人かいますし、そういう方は実際に会うとやはり大抵は素晴らしい方です。
書き方ではなく、書いてあることにフォーカスすれば、大抵その人の芸に対する神髄が分かるものだと思います。
そういう方の中で一流を起していたりすると、溜息混じりに感嘆します。
勇気があり熱意があります。
私など冷え切ったラーメンをいかにうまく食べられるかというようなしょうもない事に熱意を注いでいる体です。
一流を立てるなど別次元の話のような気がします。
一流を立てるということはそれほどまでにエネルギーがいることのように思います。
どの流派でも程度に多少の差こそあれ問題を抱えているところが大半です。
問題がない流派はまずないと言って良いようです。
当流の場合、いささか国際的なことに発展していますが例に漏れず内憂外患の様相で、
他流の武友各位より、批判や親切で色々ご指摘頂くこと多々あります。
頭が痛いこともあります。しかし私は師範クラスの末席を汚している身分に過ぎません。
その中にあって可能な限り進言し、後は後進達の教育に力を入れる。
組織として義理を果たすのはそれだけです。
というかそれしかできません。
それ以上私にできることはただ一つ、武芸に精進すること、ただそれだけです。
そもそも武芸などというものは個々でするものです。
それを多少なりとも効率よくするために集団でしているだけです。
(それは武芸だけではありませんが)
私は禅を通じて「あり潰す」ことが、自分を取り巻くこの問題をうまく導く方法ではないかと思っています。
そのために必要なことは自我を潰すこと、自我を消し去り、衆生に尽くすこと。
そしてそれこそが仏の道であること、そんな風に思ったのでした。
SD110426 碧洲齋