不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 十

なまるとは手つづき早く又おそく ところどころのそろはぬをいふ

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この場合の「なまる」は言葉などの「訛る」ではなく、所作における「鈍る」を指しているようです。

つまり、よく理解していない、よく習熟していないところは遅くなったりして、点前全体にむらがあるということでしょうか。

茶道では所作においては遅かったり早かったりしてはいけないようですね。

いずれにしても、重要なのは「理解する」ということを「体得」のレベルでないといけない、と諭しています。アタマで理解しただけでは意味がなく、一挙一動においてそれが体現されていなければならないというところに感銘を受けました。

武芸でも同じ事です。

アタマだけで理解しても体現できなければ知らないのと大差ありません。

武芸はその通り動けてなんぼのものです。

(逆にその通り動けたことを体系化させ、記録に残すか否かはその方面で能力がある人がすればよいことだと私は思っています。私にはあまりその方面での才能はなさそうです。もちろん、多少なりとも研究らしき戯れ事は怠ってはいませんが)

同門だったり他流だったり色々ですが、もの凄くよく知っている人がよくいます。

私などは正直に申し上げましてかなり無知な部類ですので、素直に感心してしまいます。

知っていることそのこと自体はとても素晴らしいことだと思います。

私などはその点、熱意に欠けていること甚だしい限りです。

唯私なりに心がけていることはあります。

それがまさにこの句の通り、武芸で指南する際、もしくはある程度断定的に言わざるを得ない場合は、知っていることや体得したことを元に試行錯誤して、我が血肉と化したことについてのみ言及するように努めています。努めているだけで実際本当にその通りなのかどうかは別ですが(笑)。

だから言葉で武芸を語るのがあまり好きではないというのがあります。(無知も祟ってはいますが)

ま、武芸は捨て置きましょう。

日常においても遅滞があるはその人の日頃からの行いに対する打ち込み方にかかっているのだと思います。

その時その時を全身全霊を以て打ち込んでいれば、例え分からないこと、解決不可能なことであれ、不可能なりの行動を日常生活の、例えば歯磨きと同じように行動するのだと思います。考え込んで立ち止まるうちはまだまだ未熟だと私は解釈します。立ち止まる時間も必要なのかなとも思いますが、立ち止まっても結局動かぬ事には解決しませんから、動きながら解決する方がよいと思います。私の武芸の師も禅の師も概ね同じようなことを言っていました。体術においては動くことが要と師はいつも言っていますが、人生でも立ち止まるよりもなにがしか動いている方がよいのでしょう。確かに物理の法則でもいったん物が止まると、再度動かすのに余計な力が必要ですからね。

と、そんな風に思うのでした。

SD101214 碧洲齋