不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 参

【Original】

深き人には

いくたびも

あはれみ深く

奥ぞ教ふる

この一首に好感が持てるのは、「志」が「高い」のではなく「深い」と表現しているところです。日本人の本質を突いているような表現のように思います。この表現は昔は普通だったのでしょうか。

「志」の漢字は「士」の「心」です。私が好きな漢字の一つなのですが、ちなみにこれは英語にはない概念の一つです。和英辞典で一番近そうな訳語が「high will」。willは意志とか願望の訳語ですから、正直なところこの訳語は「志」に掠りもしていないというのが私の感想です。残念ながらこればかりは漢字が醸し出すセンスの高さが伺えます。「思慮深い」「愛情深い」とか使われますが、志もまた、思慮や愛情と同じように深くあるべきなのでしょう。ここは千利休の心根が伝わってきそうな表現のように思います。

「あはれみ」も日本人の心の本質を表す代表格ですが、これも英語にはない形容表現ですね。日本人であれば大抵知っていると思いますが、現在用いられている「あわれ」は可哀想な意味に限定されていますが、その昔はもっと広義な意味で用いられていました。これはなかなか英訳しにくいですね。辞書には哲学用語としてギリシャ語そのままの「pathos」という語がありますが、多分これは一般的な用語ではないでしょう。もちろん、「もののあわれ」の方がはるかに情緒的です。ちなみにこれも尺度は「深い」ですね。

この首では「奥」とありますが、手元にある井口海仙著の註には「こまごまと教えた」とあります。こまごまと教える事が「奥」だと言っているのでしょうか。こまごまとしたことを教える事によって「奥」に導くという事でしょうか。ちょっとその当たりよく分かりません。

武芸では原則「盗め」です。昔はそんなに丁寧に教えていなかったようです。それは武芸に限った事ではなく、ほとんどの伝統芸能がそうだったと思います。理由は色々ありますが、観察力を養う、ということが重要視されているように思うのと、日本人は本能的に言語による伝承を信用していないというためです。私もそう思います。この辺りのスタンスは流派によって異なりますが、要は言葉があろうがなかろうが、観察眼を養わなくてはならないという事です。「あはれみ」は観察眼を養い、独学力を身に付けるための親切心と取った方がよいでしょう。決して奥に導いてくれる安易なものではなかったはずです。

具体的には流派によって考えがかなり異なるようです。正確には先生によってかも知れませんが。ある流派では手取り足取り教えていますが、理由を聞くと「こちらが100%教えても、受ける側はせいぜい1.2割しか理解できない」。また、別の流派では最小限の事しか指導しません。「盗め」です。私は門下生の性格、進み具合、教える内容次第で変えてもいいのではないかと思います。どうせ言っても分からない類のものは分からないのですから。

私のところの宗家は「技なんてどうでもいいんだ」とよく言います。色々な捉え方があると思いますが、私は技の上達に関しては同じような体格の人に同じように教えればそんなに大きな差は開かないのではないかと思います。差が出てくるのは事態に直面したとき。そこで初めて「技を教えてもらった」のか「技で教えてもらった」のかが歴然としてきます。多分教える側はその程度のことは教えている間に予期できていると思いますが、どう対応するのか、そればかりは教えてもらった側だけにのしかかる問題です。宗家の言葉はそのような意味なのかなと思う次第です。

指導する立場にある人にはぜひとも深く噛みしめてもらいたい一首ですね。

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SD100804 碧洲齋