不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

葬儀のこと

昨日夕刻からとと今日日中は法事に行っていました。

従姉の旦那さんが亡くなりました。享年47歳。

うちから一番近所の親戚だったので、よく行き来していただけに残念です。

ものすごくおとなしい旦那さんでした。

6歳年上の従姉とは私が生まれたときからの付き合いで(当たり前か)、実の姉のように慕っていました。

19歳の娘さんがいます。

禅を修行するようになってから、こういう現象についてはある程度省察を得る事ができました。

以下は師匠の信念に私の考え、感想を混ぜたものです。不謹慎なところはどうかご寛容ください。

・葬式は亡くなった方のためではなく、まだ生きている方々のためにある。亡くなってしまった方はもう立派な仏になってしまっています。生老病死に振り回されることはありません。もうちょっと生きていたかったとか、あれがしたかったとか、死にたくなかった、とかいうことよりも「仏が自分をしていた」という事実に歓喜しているのです。だから亡くなった方は全然不幸ではないのです。生きている方の方がよほど不幸なのです。まあ娑婆の苦しみというのはある意味地獄に近いものがあるんでしょうね。

・葬式はカオスのような混沌とした生者の悲しみを、秩序立てた悲しみに整えてやるためにあります。死んだ方は気楽なものです。「な~んだ、そういうことだったのか」とほくそ笑んでいるかも知れません。生きている人たちは悲しみに打ちひしがれて本当にどうしようもありません。そこで僧侶が生者の皆様に引導を渡してあげるのです。

・従姉と旦那さんのお父さんは本当に可哀想でした。旦那さんは三男坊だったので、お父さんは高齢です。多分80歳にはなっていたと思います。お母さんはもう亡くなっています。泣くでもなく、取り乱すでもなく、ただ静かにしていたお父さんは印象的でした。息子に先立たれると言うことは私には耐えられそうにありません。

・従姉と娘さんは友達のように仲がいいので、何とかやっていけるでしょう。家のローンが大変といつも嘆いていましたが、本人が亡くなると、ローンの支払い義務がなくなるというのには驚きました。本当にありがたいシステムです。こればかりは売り主の方に感謝しきりです。もちろん2人とも今は気落ちしていますが、きっと立ち直れることでしょう。

・お通夜と告別式では、私は出たものは原則残さず全部食べます。私は生き尽します。天ぷらにされてしまったエビさんが生き潰す、生き尽す為には私の胃袋に尻尾ごと収まらないと各々の命が生き尽した事にはなりませんから。

・あの葬儀場、エアコンがうるさかったな。もう少し静かにしてほしかった。それと音響設備がイマイチでした。BGMは何もない方がいいんじゃないでしょうか。

・大変失礼なのですが、引導をして頂いた某宗のご住職様がた、何というかどうしても葬式坊主という張り紙が背中に透けて見えそうです。すみません。どうしても私の師匠やその周囲の禅僧たちと比べてしまいます。格段に風格に違いを感じてしまいました。ある程度一生懸命にやって頂いているのはよく分かっているのです。それはそれで本当にありがたいことでした。

・何回忌とか施餓鬼法要会などというものは、近代になってから僧侶たちの収入を安定させるための形に収まったと言っていました。だいたい禅宗では極楽も地獄もなく、死んだらみんな仏、輪廻転生、そんなものありません。霊魂もありません。私も施餓鬼法要会というものには最近はあまり行きません。家で毎日懇ろに読経しています。それで十分です。十分というのは私の修行に十分と言うことです。死んだ人は即仏です。無縁仏とか言う人がいますが、そんなものはありません。どんな生き物もどんなものも、消失したら仏なのです。死んだ方のために一生懸命に読経するヒマがあったら他のことをやれと言われそうです。繰り返しますが、死んだ人は生者の扱いがいかなるものであろうと既に仏で救われているのです。

・ま、生きている内に死後を知りたいという、わがまま、ぜいたく、変わり者のために禅があります。お悟りは死んだときの感覚なのだそうです。おもしろそうだな、と思って今に至っています。

・私は自分が死んだ後のことには一切関知するつもりはありませんが、法名(戒名)はなんかちょっとカッコイイ禅宗風してほしいですね。そして私のことをよく知っている禅僧に付けてもらいたいと思います。50歳ぐらいまで生きていたらお願いしてみるかな。これだけはこだわりたいです。

・最近では納棺時、釘を打たないんですね。いいと思います。どうせ燃やしてしまうのですから、無粋なことは止めましょう。

・それにしてもあの火葬場の「ゴーッ」という音、もうちょっと何とかならんですか。どうしても好きになれません。仕方ないですね。

・数珠。皆さんのを見ていてびっくりしました。私の数珠はすごく使い込んでいるのが分かるぐらい、えもいわれぬ光沢を発していました。毎日使っていますからね。最低でも安そうなアクリル製のは止めてほしいところです。お通夜では息子も参列しましたが、息子が使っている数珠の方がずっと風格がありました。もちろん息子もほぼ毎日使っていますから。

・火葬場の往復、バスの中で従兄と色々話しましたが、禅の話が出たので色々話しました。近くでそれを聞いていた同行していた葬祭場のスタッフはかなり驚いていました。ちょっとかわいらしい方でした。私の話は仕事に役立てられると思いますよ。

そんなところでした。

SD100624 碧洲齋