不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

林と雲のこと

禅宗では修行僧が修行に励む場所を「僧堂」と言います。そしてそれは時折「僧林」とも呼ばれます。何故林かというと、木というものは1本で生えるとなかなかまっすぐには伸びないが、林のように集団で生えるとまっすぐになりやすいのだそうです。なかなか言い得て妙です。禅に限らず一人でずっと修行を続けるというのは結構難しいものがあります。競争の原理とか集団の規律に助けられるとか色々な真理がありますが、ともあれ一人でも成し得ることができる人はごく少数ではないかと思います。私でもそれなりに力量があれば一流派を立てるとかしたいですが、コツコツ効率的に研鑽を積むのであれば所属する流派に身を任せた方が確かに楽です。

広い野原にただ一本たたずむまっすぐな木にはあこがれます。絵になります。多分その木は何百年か経てば林になり森になっていくのでしょう。ただ「その森の最初の木」になれる人は滅多にはいません。そういう人が近くにいたら本当に素晴らしいことです。私自身、細く長く精進してますが、野原に立つまっすぐな一本、その森の最初の木にはとてもなれそうにありませんね。全然悔しくないと言ったらウソになりますが、自分の器量を良く見定めて、その器量を十全に生きて参りたいと思います。

また、禅宗では修行僧を雲水と呼びます。「行雲流水」から来ています。禅の「何にも囚われない」という思想からするとなかなかうまい呼び方のような気がします。雲は行き先はもとより自分の姿をも任せるがままに変化させていきます。水も然り、雲から雨になり地表や地下をくぐって川になり、海に戻ると蒸発してまた雲になります。変幻自在です。とどまることを知りません。多分、禅宗の僧侶たちはそのような日々変化する森羅万象の

中に仏を観たのだと思います。また禅では「来る者は拒まず、去る者は追わず」となっていますから、この辺りも雲水的な生きていると感じます。

禅では「野狐禅」という言葉があります。辞書にも載っていますが、概ねこんな意味です。

1.禅に似て非なる邪禅。

2.いまだ証していないのに既に証覚を得たという、独り善がりの大我禅者。

3.いったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢の禅。

要するに分かったつもりになっている人。今風に言えば「上から目線」でしょうか。私などは「どこでも視線」を持ちたいところですが、それが持てたらまさに観音菩薩です。般若心経にも出てきますね「観自在菩薩」まさにあれです。野狐とは言いますが、修行次第ではお稲荷様にもなれる気もするのですが、私はある一定の時期まで正師に付くことは重要な要素ではないかと思います。ずっと付いていなくてはいけないとは思ってはいません。実際に武道では守破離と言うぐらいですし、出藍の誉れとも言いますから師に付いて師から学ぶだけではきっとダメなのでしょう。とはいえこの時期の見定めは難しいと思います。勝手な想像ですが四季や死期のように時節を感じられる人は時期の見定めができるのでしょう。

さてさて、さすれば庭いじりや盆栽でもはじめますか。

SD100610 碧洲齋