不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

生がいい

ビールのことではありません。ミニスカートから見える脚のことでもありません。

昨日、市の中心街まで買い物に行きました。妻と別れて息子と行動していたのですが、駅のコンコースで市民楽団が演奏をしていました。市民楽団があるのは知っていましたが、こんなに近くで見たのは初めてでした。ちょうど「龍馬伝」のテーマ曲を演奏していましたが、なかなか勇壮な感じが出ていたと思います。その次は藤田まことさんを偲んで「はぐれ刑事」と「必殺仕事人」。いや、これも非常によかったですね。

その昔、カセットテープ/レコードの時代に比べると、SF的と言っていいほどに隔世の感があります。音も飛躍的に向上して、臨場感溢れる高音質を楽しむことができます。残念ながら私は携帯用音楽再生装置を使うことはありません。耳に栓をしてまで音楽を聴くのはあまり好きではないので。

実際、デジタルデータというのは数千億の0と1が織りなしている波形です。そしてその波形が音だったり文字だったり、動画だったりします。多少効率よく配置されようとも、音質が高くなると言うのは0と1の数が増えていくだけです。その波形を音だと錯覚して楽しんでいるだけなのです。

私は実際、ド下手で超初心者ですが二胡を弾きます。なのでよく分かるのですが、どんな優れたデジタル音楽でも眼前の音楽演奏には到底敵いません。何と言っても再生装置では「音」だけしか再生されないからです。しかし同じものを何度でも完全に繰り返せるだけです。生の楽器演奏というのはその点違います。完全に同じ演奏は絶対にできません。多分、宇宙開闢以来、その演奏はその1回だけです。そして聴いている側もそれが分かるから心のどこかで「一期一会」で聴いていますし、音以外の要素、演奏者や聴衆の雰囲気、音の圧力を感じながら聴いています。暑いときは暑いときの、寒いときは寒いときの音があります。もしかしたら意識レベルでは気付いていないだけかも知れません。しかし多分、深層心理部分では大抵の人は精神を研ぎ澄まして聴いていると思います。

デジタルデータによる武芸の撮影は今や珍しくもありませんし、研究のために盛んに行われています。私はほとんど見ませんが、当流でも色々出されています。どの流派を問わず、ビデオテープなどに比べると非常に精緻に撮影されていますね。いつも驚かされます。

武芸の技の撮影に関して、師がなかなかおもしろいことを述べていました。

見て知ろうとしている人にとって、記録映像は決して良い方向には導いてくれない。

すでに知っている人が見れば、記録映像は役に立つ。

何がどう知っているかに関しては敢えて述べませんが、これを知っているかどうかで視点がかなり違いますし、その人の力量が分かろうというものです。

私自身は滅多にありませんが体調が悪いときや怪我をしたときなどに稽古する代わりに撮影することも希にありますが、撮影しても後でそれを見ることはほとんどないですね。勿体ないことに。多分それは理由を知っているからだと思います。(他人事のように書いてしまいましたが、意識していないので推測で書いています)

便利すぎるが故に修行を阻害してしまうことは今の世の中では良くあることです。修行を阻害しない文明の利器は可能な限り用いて、基幹となる重要な部分の修行を阻害するものは極力排除していきたいところですが、今の世の中に生きる限り、それはかなり難しいと思います。

SD100614 碧洲齋